舞台「ぼっちゃま」を観る。
2011年 05月 29日
心惹かれた要素は出演する役者陣。柳家喬太郎師匠が!そして、白石加代子さんが!高田聖子さんが!梶原善さんが!・・・個性的な方ばかりだ。主演は稲垣吾郎ちゃん。ずっと前に吾郎ちゃん主演の「夜曲TSUTOMU」を観た。彼は放火魔の役だった。この舞台もえらく面白かったっけ。
戦後の東京郊外。戦前は大地主で道楽者の父のもと、裕福な環境で大人になったぼっちゃまこと幸一郎は、戦後の価値観の転換にイマイチついていけてない。幸一郎流解釈を加味した古き良き美意識を振りかざすために、腹違いのきょうだいたちとどうも噛み合わない。けれどもなんとも滑稽で憎めない存在として燦然と(?)輝く。まるで太宰文学の主人公のようだ。そして幸一郎を「ぼっちゃま」と呼ぶばあや(白石加代子)は、彼の矛盾も無軌道もわけわからなさも、それこそがぼっちゃまそのものだと丸ごと受け止め、いつだって幸一郎の側に立つ。この丸ごと肯定する感じは、漱石の「坊っちゃん」における主人公と「お清」との関係や、太宰の「津軽」に出てくる太宰自身と「たけ」との関係を彷彿とさせる。
白石加代子さん演じるばあや千代は、それだけじゃない。なんとも色っぽいのだ。きものでの立ち居振る舞いがものすごく自然で美しくて、一挙手一投足にほのかな余韻があって、出ていないときでも舞台に存在が残る。その家の主・幸一郎を照らし続ける光のような存在だ。彼が思いのまま振る舞っていられるのも、千代あってこそ、なのだ。
我らが喬太郎師匠は、以前は幸一郎の父親に贔屓にされていた幇間で、今は骨董屋を営む男の役。これがまた落語の世界から抜け出てきたような役どころで、師匠にぴったりだった。ふだんは高座の座布団の上から落語に描かれる世界を伝える方が、舞台の上では動き回って時代の匂いを届けてくれる。ふだんから生な現場のお仕事なせいだろう、舞台の上でもとても自然に呼吸されているようだった。
矛盾するような考えがせめぎあってても、それでいいんだ生きているのだから、というようなやりとり。舞台の終盤の、どんなにしんどくても大変な目に遭っても生きていなくちゃ、というような台詞。「生きる」に言及するシーンがいくつもあった。それは作品の時代設定によるところが大きいだろう。現時点でわたし自身は死にたくなるような辛い目を味わったことはないが、今回の地震ではそういう人も多かったに違いない。時代に取り残されているぼっちゃまも含め傷を負った人たちへの、優しげな応援讃歌なのだなあと受け止めた。面白くそしてあったかく、千代のように優しく寄り添ってくれるような作品だった。