ひねくれ者は、思ふ。
2012年 06月 17日
三浦しをんさんの「光」(集英社)を読み終えた。涙など一滴も出なかったけど、物語の淵へぐいぐい引きずり込まれ、ものすごい圧倒感に包まれながら、ほとんど一気に読み終えた。物語力とそれを支える的確でぶれない文章にいざなわれ、息を詰めるようにして読んだ。泣けるとか泣けないとかいう次元など、軽々と飛び越えていた。
たとえば年頃の娘をもつ父親が、色付きリップをしたりコロンの匂いを振りまいたりし始めた娘に対し、「色気づきやがって」と(さみしそうに)ぼやくんなら「うんうん、そうだね、さびしいね、いつかお嫁に行っちゃうしね」と娘をもつ父親の悲哀を想像したりするのだが、年端もゆかない娘をとっつかまえて「色っぽい」とか「もうすっかり女だ」とか言うのって・・・ぶるる、気持ち悪い。男親のみならず女親までその類いのコメントをしていたりすると、なおさら気持ち悪い。
こんなふうに思ってなんとも判然としない気持ちになるのは、わたしがひねくれ者だからなのか?どうなんしょ。ま、どうでもいい話だけどもさ。
後者について:
いくらプライベートに設定しようとも、全世界に対して、未来永劫、公開し続けることと、ほぼ同義である現状を認識すべきです。
また、写真に付随する、公開した本人、及び全世界、未来永劫に渡る制御不能な不特定多数からのコメントもまた然りです。
つまり、その娘さんが、未来、お年頃になり、家庭を持ち、歳をとる… その過程の無作為の時刻の彼女に、その親の意思に依らず、その写真とコメント群を公開しているということです。
これは、「この娘が結婚した日に見せてあげよう。」と綴った、アナログのアルバムとは、全く異質だと思います。
故に、僕も気持ちが悪く思うことがあります。
人生は各々平らではないのに… と。
なるほど、文字の怖さですよね。
一般に短いコメントほど、その主の感情が掴みづらい。
一見、ロリコン趣味ととることもできるコメントは、どんな雰囲気の人が、どんな表情でコメントしているか分からないから、気持ち悪かったりする。
殊に女性であれば、自分を被コメント側に置く想像がし易いし、尚更そう感じるのかもしれません。