わたしとオリンピック。
2012年 08月 03日
あのときに見た体操競技に大きな衝撃を受け、「体操選手になること」が夢になった。女子個人総合で優勝したレットン選手(米国)よりも、2位のサボー選手(ルーマニア)の演技に魅了された。同じ年の冬、再び衝撃を受けた。全日本体操選手権で女子の個人総合2位に入ったのは、当時小6の信田美帆選手。体操選手になりたいと思い始めたはいいけど、週一回のクラブ活動で跳び箱やマット運動をするにとどまっていたわたしに引き換え、ひとつしか違わない信田さんは新星として華々しく体操界に登場した。すごく憧れた。
中学に入ってから、近所の私立高校の体操部に混ざって週末だけ練習を始めるようになった。中学の体育の先生の仲介で得た機会、それはもう夢中になった。高校生はとても大人に思えた。合宿にも参加し、そのしんどさに泣きながら、それでも必死でついていった。コーチと先輩に補助についてもらって段違い平行棒で初めて大車輪を体感して舞い上がった。テレビの向こうだった体操競技が、自分の手中にあった。
中2になり試合にエントリーをする段になって、中学サイドから学外でのしかも私立校での活動を禁止された。高校サイドからも何かあったときに責任がとれないという理由で禁止された。手中にした大好きな世界があっという間に遠のいてしまった。中3になり、ソウル五輪をテレビで食い入るように見た。首位争いはルーマニアのシリバシュと、ソ連のシュシュノワの一騎打ち。最終種目の跳馬まではシリバシュが僅差で首位。そのシリバシュ、跳馬の着手の際に脚が開く癖があり、それがあだとなって、完璧としかいいようのない演技をしたシュシュノワが劇的な逆転優勝を飾った。小数点以下のところで勝負が展開した試合だった。もこもこのショートカットのシリバシュが泣いていた顔、今でも憶えている。
体操部のある公立高校に入って再び体操の世界を手中にしたけれど、中1のときのようにはいかなかった。身体が思うように動かせなくなっていたし、以前はなかった恐怖心というものが始終邪魔をした。それに囚われて精神的に参ってしまい、結局高校三年間の部活動は辛かった記憶と葛藤しかない。インターハイ出場どころか、さほど強くない茨城の大会の中でもビリから数えたほうが早いような選手でしかなかったけれど、どんなレベルであれ苦痛はあるもので、わたしの場合は自分の弱さを鼻先につきつけられたような毎日がたまらなく辛かった。その後当時の自分を引っ張り出しては分析したり消化したりしたおかげで、今では懐かしい思い出と受け止められるけど、そもそものきっかけはロス五輪を見たことに起因しているのだから、人生とは何がどうあるかわからないなあって思う。
高校時代、ベルリンの壁が崩壊し、ソ連が解体し、ルーマニアにも革命が起こった。わたしが大好きだったソ連やルーマニアの選手たちは居場所をなくし、米国にわたった。ルーマニアの政変を新聞で見たときに真っ先に思ったのは、ナショナルチームの選手たちはどうなるの?ってことだった。年齢もさほど変わらない彼女たちが国を去らねばならないという現実は、茨城で安穏に暮らしているわたしには想像もつかないことだった。
そんなあれこれを、4年にいっぺんオリンピックが巡ってくるたびに、思い出す。それにしても昔のことって案外忘れないものだ。
しかし、以前はね、黒人が出てこられない種目って多かったけれど、いまや体操や水泳やテニスでも黒人が上位にこられる時代になったんだな〜って感慨深いものがあります。