惑わず、はなかなかに難しい
2012年 09月 18日
芽生えたての悶々とした想いを一掃するべく今日は、朝から落語に行き、馬喰町のおしゃれ雑貨屋で目の保養をし、帰宅して溜まった新聞を読み、洗濯をし、冷蔵庫を片付け、栗を茹で、あれこれ入れこんだ味噌汁をこしらえた。味噌汁が実においしくできた。身体に沁み入った。
そうした中で徐々に脳みその中がクリアになっていき、落ち着いて順序だてて考えているうちにふと思い出した言葉がすとんと心にはまって、一気に気が楽になった。その言葉はついこないだ、クライアントのA嬢にさらっと言われたものだった。
某外資系企業の仕事で遠出した際、日本をこよなく愛するとても気さくでフットワークの軽い外国人社長も同行。A嬢の話から、彼がわたしと同じ年であることを初めて知った。「社長とわたし、同い年だわ。なんだかすごいなあ・・・」(この「なんだか」の部分には、わたしが知る限りの彼のすごいぶりが全部含まれている)とわたしが驚嘆して呟くとすかさずA嬢が言った、「でも彼には写真は撮れないから」、と。
その言葉を思い出したんだった。
それにしても・・・「四十にして惑わず」だなんて、孔子さんも難しい課題を出してくれたものよ。それともほんとうに四十の領域に足を踏み入れたら、惑わないでいられるのか。いやいや、きっとそんなことはないだろう。だからこそ、「えーい、今更じたばたせずにここまできたんだから惑わずにまっすぐ行け」って背中を押すつもりでそうのたまったのかもしれない。
3年前、奈良の旅でご一緒した・・・です。
時々、懐かしく読ませていただいています。
私も孔子のこれらの言葉に、「そんなの無理」って思ったので、よくわかります。 でも、ある日ふと思ったんです。
子曰く、吾・・・と始まりますよね。 ということは、孔子がそうだったということかなって。 孔子ほどの人がそうだったのなら、私は無理よ~、って。 私ができないのは当たり前!(^v^)
孔子より何年(何十年?)遅れてそうなれるか、楽しみにしているんですよ。
「惑わず」に見える人でも、きっと内奥ではもだえてると思いますもん。そのもだえを正面から捉えて覚悟するか、またはもだえに引っ張られるか・・・じゃないですかねえ、人間って。
私?あと数年で「人生五十年」になりますが、いまだにもだえてますもんね。でも、それが、それこそが下天を生きる証しかもですね。