「井上ひさしと考える日本の農業」を読みながら
2013年 07月 20日
インタビューの中で、仲間がどんどん死んでゆくという話をされ、その仲間のひとりとして井上ひさし氏の名前も挙がった。ちょうど「井上ひさしと考える日本の農業」(家の光協会)を読んでいるところ。読みはじめのあたりに書かれていたことを思い出した。
「いちばん子どもにとってだいじなのは、動物が生まれるところをみせる、死ぬところをみせることです。あるいは自分がなにかを植えて、それが一日一日と大きくなって、やがてそれが刈り取られて死ぬところをみせる。そうやって人間が自然のなかの一部であり、自然とどう付き合っていくかがだいじだと教えないといけません(中略)農業は教育力があるのです」(第一章内より引用)
10歳くらいの頃、へちまの種を一粒手に入れた。当時へちまを育てることに憧れていて(多分スポンジを作ってみたかったんだと思う)、意気揚々とその一粒を庭に埋めた。後日、めでたく子葉が出た。わーいわーい、わたしのへちまだ、と大喜びし、朝晩水をやってその生長を楽しみにしていた。猛烈に暑いある日、へちまを見るとなんだか萎れていた。慌てて水をやってみたけれど元気になることなくそのままくたくたになってしまった。わたしは大泣きした。刈り取りどころか本葉すら出ないうちにその生は終わってしまったのだ。
そういう子ども時代の出来事が今のわたしにどう作用しているのかは自分では全くわからない。ただ、日々死ぬことに向かっているのだという意識は常に頭の片隅にあり、それを受け止めている一方でとても畏れてもいる。年々寝ている時間が増えている飼い猫の老いや死を考えることが多くなったし、70代突入の両親の先のことを考えて肝が冷える思いだ。自営業なせいもあるけれど、一寸先は闇とか背水の陣とか野垂れ死にの自由とかそういう言葉が常についてまわっている気がする。だからこそ前向きに一日一日を昇華させようとも思うのだけれども。
きのうのインタビューの中で筒井先生が、仲間がどんどん死んでゆくのを見ているとこれは長生きしたほうが得だなと思うわけですよ。だって、この先どうなるか見たいじゃないですか。どんな世の中になるか見たいじゃないですか・・・とおっしゃった。それはまるで、革命後の新しい時代を切望する青年の姿のようでもあり、世界がどう堕ちてゆくのかを静かに見つめる古木のたたずまいのようでもあった。手塚治虫の「火の鳥」で描かれていたような荒廃した世界を即座に想像してしまうわたしは未来への希望や好奇心が足りないのかもしれないなあ・・・。自分の足元のことで精一杯、なせいもあるのだろうけども。
お昼間の仕事が筒井康隆さんだったので?
うちの相方がファンで(私は七瀬シリーズのファン)、
この記事を涎まじりに拝読いたしておりまする〜。
しかし御歳数えの八十ですか?!
これからもますますお元気に活躍していただきたいですよね。
・・・なんて台詞は不要な人物かもしれませんが(笑)