先月末、27日はくるりの「NOW & THEN」ツアー@渋谷公会堂へ、29日はandropのライブ@川崎クラブチッタへ。くるりのライブは数えきれないくらい行っているけど、andropは初めて。以前新宿でラーメンを食べていたときにお店で流れていた曲が気になって、帰宅してその日その時間に流れていた曲をネットで調べてandropにたどりつきセカンドアルバムを購入、それがとてもよかったので今回ライブに行ってみようと思い立った。
くるりのライブはファーストアルバム「さよならストレンジャー」とセカンドアルバム「図鑑」を振り返ってみよう的ライブで、ずっと生で聴きたかった「ピアノガール」が聴けたのが何よりだった。アルバム音源の細かい描写まで目の前で再現され、こんなところまでやってくれるなんて!と嬉しいことしきり。このふたつのアルバムが出た頃、わたしはまだくるりのことを知らなかった。「アンテナ」で初めて知り「ワルツを踊れ」ではまったという随分遅咲きのファンなのだが、知らなかった時代を濃さで埋めるように、「ワルツ・・・」から2年間くらい家でくるりの音しか聴かなかった。おかげで昔の楽曲を聴いてもまるで昔から聴き知っていたような顔してライブを楽しめる。最後の「宿はなし」は京都音博のアンコールで毎回歌われる曲なこともあり、晩夏の京都の夜の入り口の空の様子が思い出されて胸がいっぱいになった。
さてandrop。ライブ自体はすごくよかった。ボーカルの声質からくるものだと思うけど、ふわーっとのぼっていく感じが気持ちいい。ベースの音も好き。ああ、いいなって思った。けれど。こないだビクターロックフェスで観た若いバンドもそうだったからandropだけの話じゃないと思うけど、なんていうか観客に一体感を求めるパフォーマンスってはやっているのだろうか。わたしはこれが苦手だ。それぞれに盛り上がって結果一体感が生まれるってのはいいんだけど、ステージ主導でみんなで声を合わせてとか言われるのがどうも苦手。加えて長めのMCの中で、ライブでみんなに勇気とか元気とか与えられたらいいなと思ってます、的なコメントがあって、優等生っぽいなあと感じ、そういうのは聴いた人おのおのが感じることであって、言葉にしちゃあつまらんのではないか、と思ってしまった。わたしが単にひねくれ者なのか。
一体感を得ることがもしかしたら時代の最重要項目になっているのだろうか。そんなことを思っている矢先にちょうど読み始めた本が
「絶望の国の幸福な若者たち」(古市憲寿/講談社)で、まだ読みかけだけど、理解の助けになってくれそうだ。一体感・・・一体感ねえ・・・得られないと不安?