ぱちが逝って20日の記。
2015年 11月 23日
今年はよそんちの猫の訃報をよく耳にする。自分ちがそういう状況だったから余計そう感じるのかもしれないが、聴いた話をまとめると大体ぱちと同年代なことが多い。一日おきで点滴を受けたんだけどだめだったという話をきのうきいた。腎臓が片方機能しなくなっていたんだそうだ。食欲不振が始まり痩せ始めたぱちも腎臓の数値は悪くなっていたけれど、もうずいぶん年だから腎臓の治療よりも、食べたがるものを食べさせてあげてください、食べないようなら点滴をというのが医者の処方だった。点滴を打った後はだるそうで、申し訳ない気持ちでいっぱいだった。常々健康チェックのために病院に行く習慣をつけていればもっと長生きできたかもしれないね。ごめんね、自分がほとんど病院に行かないものだから、ぱちにもそうしてしまってた・・・そんなふうに毎日遺影に向かって詫びている。
それでも時間がたつにつれありがたいことだったんだなあと気付くことがいくつもある。ぱちはケモノにもかかわらず、最期は介護をわたしに委ね、冬に一緒に寝ていた布団の中で息を引き取った。昨今人間でさえ畳の上で逝くことは難しいのに、ぱちはそれを成し遂げた。老いてゆくスピードはおそろしく速かったけれど、人間だとか猫だとかいう枠を越えていっこの生き物としてしっかりと生の終え方を見せてくれた。絶食状態の2日後に、潔くそしてきれいに逝った。わたしが仕事で出ている間に静かに、まるで「愁嘆場は苦手だから待たずにゆくぜ」みたいな感じで、出かけるときの寝姿のまま。時間がたってしみじみ思う、わたしもぱちのように生を終えたいなと。静かに潔くきれいに。
いまだに、わたしが外出している間、座蒲団の上でぱちがいびきをかきながら昼寝しているような気がしてならない。多分、見えないだけでそうしているんだと思う。きのうはぱちが好みそうなクリームの挟んであるパンを買ってきて供えた。思いもかけず勢いよくクリームをつけた指先にかみついた最期から3日目の夜の感触が甦る。
お逢いしたことない方からのメッセージ、全然、キモチ悪くなんてないです、むしろ、すごく嬉しいしありがたいです。いろんな方がご自身の体験を寄せてくれます。悼む気持ちを分けていただくことで、こちらも励みになってます。ぱちが繋いでくれたご縁に感謝です。
ぱちも風呂場のタイルによく横になってました。残り湯を飲むのが好きでした。思えば、そろそろなんだな、とこちらに感じさせる何かを生き物として自ら発信できるって、すごい力だと思うのです、病院で生を終えることが多くなった人間ではなかなかそういかないように思います。飼い馴らされたようでもケモノの本性をちゃんと備えたままでいることに敬意すら憶えました。
もういないとわかっていても、気配や存在感をなんとか見出そうとしてしまう自分がなんだかとても湿っぽいなあと思うんです。ほんとなら、よく生きたありがとう、また逢おうぜ、って明るく遺影に話しかけたいんですけどね。まだそこまでには達せられません。
おきものお好きなんですね。先日、二子玉川の松美屋さんのセールで、追悼ショッピングだとまたもやきものと帯を買ってしまいました・・・。いい気なもんです、ほんとに。ぱちもきっと呆れているだろうと思います。