落語会のお土産
2008年 04月 11日
毎月四席のネタおろし・・・これは聞くからに過酷だろうと思う。憶えるだけでも大変だろうに、それを客に披露できるレベルにまでもってゆかねばならないのだから。毎回撮りながら四席を堪能。今回は殊更に「文七元結」が心に響いた。人情噺だから演者の声や客の笑い声にシャッター音をかぶせて撮るタイミングも難しく、狙ってはいるけどシャッターを切りあぐね聴き入っている時間のほうが長かった。
受け継がれてきた筋立てのある噺だから次の展開は決まっているしわかっている。それでも引きずり込まれた。筋に沿って展開していく、という感じよりも、志ら乃さんが今物語を創り上げていっている、という感じがした。帰りの電車の中でなぜそう感じたのだろうと思い返してみた。わたしなりの見解にすぎないけど、志ら乃さんが描く登場人物の心の軌跡がとてもリアルに自然に流れていたからだと思う。
娘が吉原に身を売って工面した五十両で借金に片をつけ、一年後に返金しなければ娘は客をとらされる。五十両は生活を立て直すための大事な資金なのに、五十両をなくして川に身を投げようとしていた男にその金をくれてしまう。主人公はもちろん逡巡しその果てに金をあげてしまう。その心の軌跡がものすごく生々しかった。「この噺では五十両くれてやることになっているからあげた」という予定調和さは一切なかった。主人公の逡巡が志ら乃さんの逡巡かのようだった。それって演者が主人公の心持ちになっているってことじゃないか。
落語を頻繁に聴くようになって2年くらいだし芸事のことはわからない。けれども聴く側として心に響く響かないの判断は持ち合わせている。こういうのはとても個人的なものだし単純な好き嫌いの問題でもあるけど、今宵の「文七元結」はとても響いた。うわぁー、いいタイミングに出くわせた、と思った。
ベテラン真打ちの高座のみならず、二つ目さんの落語会にも足を運ぶ。たくさん笑わせてくれる二つ目さんは何人もいるけど、さあ撮りたくなるかといえばそうでもない。落語は聴くものであって撮るためのものではないわけだけど、職業柄撮りたくなるような被写体を常にどこかで探している。
落語を聴いていると同時に演者の表情をものすごくまじまじと見ている。ある人物から別の人物へと移っていくときの目の動きとか、表情の変化とか、そういうのをすごく集中して見る。それは正しい(?)落語の聴き方ではないかもしれないけれど、職業病みたいなもんだからしかたがない。そうした結果「撮らせてもらいたい!」と思ったり思わなかったり。その分かれ目がなんなのか自分で把握しきれてないけど、おぼろげながらわかってきた気もしている。
「考える」「感じる」というお土産付きの独演会、毎回撮らせていただいていい刺激になっている。
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