松山で聴いた昔の東京の物語。
2009年 04月 08日
帯締めを見ていたら主がぶら下げていたカメラに目を留め「どちらから?」と声をかけてきた。「仕事で東京から来ました」「カメラの仕事?」「そうなんです」・・・そこから主の若い頃トーク。大学は東京で写真部だった、カメラマンに憧れたけど当時は金持ちじゃないと難しい仕事だったから断念した、若いうちは東京で働いたけど当時は長男は実家に戻って家業を継がねばならなかったからね云々。
「着物と帯は隣りにあるから」と言われ案内されたのはご自宅。商家らしい広い玄関で「おーい、ちょっとー」と主は奥に声をかけ、「あがって」と促す。玄関そばの座敷に入ってたまげた。十畳くらいの座敷一面に敷き詰められた着物と帯。「うわー!!!」と喚声をあげるわたし。そこに主の奥方が出てくる。「たくさんあるから好きに見て」と。早速座り込むも、どう手をつけていいのやら迷うくらいの数だ。
「縞の着物」と「単衣の着物」のふたつにキーワードを絞る。単衣があちこちから引っぱり出される。「これは?ちょっと地味ね」・・・着付け教室帰りの生徒たちが遊びにきてきゃあきゃあ言いながらあれこれ試着していったりするんだそう。お互い着物の山の中に座り込んで物色しながらよもやま話に耽る。「わたしね、生まれは東京なのよ。深川の八幡さまの裏手に住んでたの」「えーと、富岡八幡ですか?」・・・
「木場がまだ移ってない頃あのあたりは町全体が材木を扱う店だらけで、その中のひとつがわたしの実家だったの。当時はどこの部位の材木を扱うかで店が分かれていてね、うちは主に柱を扱ってた。職人の多い町だからひとりでぶらぶらできるような場所じゃなくてね。あの辺の子どもはみんなおませでね、学校に行くとほかの地区から来ている子たちと言葉遣いなんて違ってて。公立には行かないの。みんなお嬢さん学校に通ったのよ。
うちのお店の隣りに大店があって、材木で大きな財を築いた家で、なんでも横浜だかに大きな観音さまを作ったって噂。○○さんっていうんだけど、ここの長男が実は旦那がお妾の芸者さんに生ませた子どもで、使用人が口を滑らせて当人に言っちゃってから頭がおかしくなっちゃったのね、それまで優秀だったのに。発作がひどくなると千葉にある座敷牢に入れられてたのよ」
芸者さんと聴いて「あのあたりは辰己新地がありますよね?」と尋ねると「そういう粋筋の町だからやっぱり独特の空気があったわねえ」と。
・・・まさか松山で深川の話を聴くとは。奥方、とても嬉々として懐かしそうに思い出を語ってくれた。そうこうするうちに隣りの店から主が戻ってきて、まだいるわたしを見てびっくりしてた。ちょうど昼ご飯時分だしそろそろお暇せねばと、目に留まった単衣二枚と袷一枚を羽織ってみる。この単衣は両方ともすんごく好みなんだけど、いかんせん片方は身幅が広すぎるのと裾に目立つ汚れがあったのでやめにする。ブルーグレーの単衣紬は即決。草木染めらしい袷も羽織ってみる。これがしつけが付いたままで未使用、なのにものすごく軽くて柔らかい。ほんの少しだけ迷ってこちらも即決・・・っておいおい、機材があるのに着物を買う阿呆。またもやらかした、やれやれ。