「む一ちょ写真日記」:猫
2019-09-05T04:00:21+09:00
naomu-cyo
フォトグラファーの武藤奈緒美です。日々感じたことや思ったことを、写真とともにつれづれなるままに。
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月命日には
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2019-09-05T04:00:00+09:00
2019-09-05T04:00:21+09:00
2019-09-04T17:12:01+09:00
naomu-cyo
猫
今年の11月でぱちが逝って丸4年になる。その間、いく匹もの放浪猫が庭を訪れた。ぱち在中の頃からよく来ていたブサイクなボスキャラ猫・ブサは、ぱちが逝った翌年の6月もおしまいの頃に、夜中に一声咆哮し絶命した。翌日朝から仕事が入っていたので、夜のうちにコンビニでダンボールをもらって来、呉服屋がくれるウコン染め(防虫効果があるようだ)の風呂敷に亡骸を包み、ぱちの仏壇の花を一輪失敬して供え、軒下の直射日光のあたらないところに安置し、区の窓口にFAXを送り手数料を添えて埋葬業者への仲介を託した。さすがにブサは家族ではなかったこともあり、ぱちのように手厚くは葬れなかったけれど、区の窓口を通すことで合葬してもらえ、後日お参りもできることを対処方法を調べている過程で知った。態度のみならず図体も大きかったブサがどんどん痩せていき、うちに寄るとものすごい勢いで水を飲んでいたのはおそらく、腎疾患だったと思われる。生前のぱちと網戸越しに対峙したこともあった。
今頻繁にやってくるのは、朝なら不二子(小股の切れ上がったいいオンナ風)、夜ならかあさんだ。朝カーテンを開けるとすでに不二子は飯碗を見下ろし静かに待っている。見た目はいいオンナ風なのに、声がまずい。だからなのか滅多に声による自己主張はしない。一方かあさんは、夜中であろうと明け方であろうと甘ったるい声で室内のわたしにご飯をせがむ。双方拠点ありの出歩き猫のはずだが、最近不二子に野生感が出てきた。もしや拠点を追い出されたかとちょっと心配している。
彼女らのおかげで、ぱち不在の日々のさみしさが少しは緩和される。それでも顔を寄せ合って眠るわけではないから、時々あの幸せな朝を思い返す。あの日目覚まし時計が鳴る前にすうっと目覚めると、わたしの首のあたりにぱちが顔をうずめてすやすや寝息を立てていた。得も言われぬほど満ち足りた朝だった。いつでも何度でも思い出せる、あの感触と胸に広がったあったかさを。
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欧州落語ツアー同行日記〜3回目の命日〜
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2018-11-07T01:47:00+09:00
2018-11-07T01:48:27+09:00
2018-11-07T01:47:34+09:00
naomu-cyo
猫
出発当日、仏壇の花を活けかえ、お供えの缶詰を増やし、線香をあげ、念入りに手を合わせた。3年前の11月7日に葬儀を終えてからずっと、遺影に話しかけている。生前よりも話しかけることが増えた。姿という実在があるときは、お互いの間に了解関係が存在しているから話しかけなくても大丈夫だった。実在がなくなってしまってからは、話しかけることで何かを確かめているのだろうか・・・その「何か」がなんなのかはよくわからない。ぱちと過ごした日々のことであったり、わたし自身の内面であったり、ぱちが確実にこの世に生を受け命を全うしたという事実だったり・・・多分さまざまなことがそこに含まれていると思う。こうして記しているだけで涙がじわじわ湧いてきて、鼻がつんとする。
3年前の11月4日に大きな存在を喪った。そして3年後のその日、3年前には想像もしていなかった欧州の地で写真を撮って過ごした。ぱちの不在によってぽっかり空いたところは永久欠番のように空いたままだが、喪ってもその後得ることが多かった。前に向かって、死に向かって、生きていく、生きている。失いながら、喪いながら、得ていくこと。それがつまり生きていく、生きているということなのでしょう。
マルタで出逢った猫を見て、やっぱりぱちを想う。
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毎日新聞日曜版「新・心のサプリ」を読んで思い返すことなど。
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2018-04-13T04:20:00+09:00
2018-04-13T04:20:58+09:00
2018-04-13T04:20:58+09:00
naomu-cyo
猫
こないだの日曜日は海原さんの同居猫との終の別れの話だった。猫に異変が見られ病院に連れていき、手術は成功したが突然具合が悪くなり、酸素ボックスを借りて自宅療養。苦しげな呼吸を続ける一方で表情は病の影もなく幸せそうだ。友人の獣医によると、「呼吸状態が完全に死の直前」なのにその状況は不思議だという。そこで海原さんは「幸せそうな表情の猫は私に何を伝えたいのか」と考え、「もしかすると、猫は、私が大泣きせずに自分の死を受け入れられるまでがんばるつもりなのだ」と気付いたという。「そうか、大丈夫よ。ありがとう」と伝えると、すぐに猫は「あまりにも美しい寝顔でいまにも起きてきて空を見上げそうな表情」で旅立ったとのこと。
愛猫ぱちを看病した4ヶ月の日々のことを思い出した。一度は盛り返した食欲は秋に入った頃に再び衰え、どんどん食に執着を見せなくなり、細っていった。再び元気を取り戻すことはないのではと思うと、別れを受け入れたくないわたしは毎日ぱちの前で「おいていかないで」とおいおい泣いた。「夏を乗り越えようね」と励まし、夏を越したら今度は「一緒に桜を見よう」と言葉をかけるようになっていたのだが、今から思えば、次から次へと希望を口にするわたしにぱちは限界を感じていたのかもしれない。それでもけなげにふるまってくれてはいた。終の別れの3日前あたりだっただろうか、ほとんど何も口にしなくなったぱちに、もう我慢しなくていいよ大丈夫だよとようやく言ってあげられた。そしてわたしが仕事で出ている間に静かに生涯を閉じた、愁嘆場を避けるかのように。すーっとした安らかな寝顔のような顔をしていた。
海原さんのエッセイを読んで改めて、猫は、そしてぱちは、こっちのことを全部お見通しだったんだな、ちゃんと通じているんだな、と振り返った。そうして、ぱちを想ってまたおいおいと泣いた。2年半がたつけれど、何かっていうとこうして涙が止まらなくなる。おとといの夢にも出てきた。夢の中で顔をわたしにぐっと寄せてきたのを、朝目覚めたときにはっきりと憶えていた。仏壇にお線香をあげながら、「夢に出てきたねー。ありがとう」とお礼を伝えた。しばらく振り返らずにいられたんだけど、あーあ、またむしょうに逢いたくなっちゃったよ、ぱち。
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2年がたち
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2017-11-05T11:05:00+09:00
2017-11-05T11:08:54+09:00
2017-11-05T11:05:57+09:00
naomu-cyo
猫
命日の朝は月命日同様魚を焼いて仏前にお供えをし、いつもより長く手を合わせた。
消さないメモリーカードがある。それはぱちが逝く2日前だったかに最後に顔を並べて撮った写真と、ぱち最期の日の朝に撮った写真とが残っているカードで、この2年まともにそれを開くことができないでいたのに、撮影した他のカードと間違えてこのカードをPCにコピーし、開いてしまった。びっくりした。そこには息もたえだえのぱちと泣きはらした自分の顔が写っていた。ぱちは記憶の中のぱちよりもずっと小さく、どう見てもおしまいが近いという風情だった。看病渦中に自分が在ったときには、まだまだ生きて欲しいという強い念があるから見て見ぬふりというか思考が停止していたというか、受け止めきってなかったのだろう。2年たってそれを見ると、明らかにぱちはもうじきお迎えが来るという状態だった。2年後のわたしは「ああ、ぱちはすっかり生き切ったんだ」と理解した。こんなになるまで、ぎりぎりのところまで、生き切ったのだ、と。命をすっかり使い切った、もうひとかけらも命の灯火が残っていないという姿であった。
少し前に、漫画家のヤマザキマリさんが新聞の人生相談に寄せられた、「大病して足が不自由になった87歳の祖母に明るさを取り戻すにはどうしたらいいか」という相談に対し、自分の母の老化を受け止められずどうしたら元のように戻ってくれるのか改善策を模索する日々を過ごしたのちに「老いとは決して元に戻るものではない」と気付いたと述べ、「私の母もあなたのおばあさまも、自然の摂理に全うに、生き物として正しく生きているだけなのです」と答えていらした。去年の暮れ、ヤマザキさんのインタビューを撮影する機会があり、最初の挨拶で裏に猫写真を刷った名刺を渡したのがきっかけでお互いの猫話になり、取材だというのに涙が出てきてしまったのを思い出した。あのときも命を全うするという言葉を使っていらしたと記憶している。かつて一緒に過ごした猫の最期のことを懐かしそうに話してくだすった。涙を伴わずに思い返すのには時間が必要だということも。
生を全うし、訪れた最期をぱちは静かに受け入れたのであった。そこをちゃんと理解するのにわたしには2年の時間が必要だった。あのとき自分が、とか、もうちょっとちゃんと向き合っていたら、とか、自分の所業を責めるのに熱心で、ぱちが生き切った全うしたのだということをちゃんと理解できていなかった。今度こそ、言葉の上だけではなくしっかと受け止められた。
座布団の上に無造作に置いた膝掛けの形がぱちの寝姿に一瞬見えた今朝。この住まいのあちこちにぱちの残像はまだまだ濃く残っていて、残像に見守られながらわたしは日々を過ごしている。命日くらい終日しんみりしてたっていいだろう。遺影を眺めながら強烈にぱちに触れたくなって、記憶の中の触感を思い返す。それは今でもあったかく柔らかい。
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ぱちの一周忌。
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2016-11-05T01:53:00+09:00
2016-11-05T01:53:38+09:00
2016-11-05T01:53:38+09:00
naomu-cyo
猫
この一年、繰り返し思い出されたのは一気に衰えてからのぱちの姿ばかりだった。長い時間をともに過ごす中で、愛くるしい場面やどうにも笑っちゃう場面だって山ほどあったのに、わたしがもっと早く気が付き対処していればという後悔が根っこにあるからなのだろう、ぱちの弱った姿ばかり思い浮かんできて申し訳なくて涙が止まらなくなる。一方で、毎朝毎晩仏壇もどきの場所にお線香をあげながら遺影に向かい、朝なら「おはよう、今日はいい天気だよ」などと話しかけ、夜ならその日一日の報告をし、生前と変わらず話しかける日々が続いている。
きのうまでは「一年前の今日、ぱちは生きていた」と思えていた。今日からは違うのだ。そういう一年が新たに始まる。一緒に過ごした日々がどんどん遠のいてゆく。ぱちを構成していた全てをいつまでわたしは記憶の中に繋ぎ止めておけるだろうか。忘れてしまうことがこわい。
この一年、家の中や人目につかない帰り道などでめそめそ泣きながらも、一生懸命やってきた。もりもり働き、友人と出掛け、笑いもし、ちゃんと外の生活を送ってきた。もちろん内の生活だってちゃんと送っている。でもぱちの存在感がこの狭い家の中のあちこちに残っていて、そこに今はいないぱちの姿を見てしまう。この冬もこたつを出せないような気がする。ぱちとこたつ、これはもう切っても切り離せない関係だったから。こたつを出すにはまだ時間がかかるようだ。
きのうの朝、母から電話があった。出張仕事のお土産を送ったので、届いたよありがとうから始まり、近況をひとくさり話した後で、「もう一年たつでしょ」と向こうから切り出した。うん、お寺から法要の案内がきたけれど、家でわたしなりにやることにするよ。まだ納骨してないのかって言う人もあるんだけど、手元に置いておきたいんだよね、と伝えると、「それでいいのよ。別にうちはどこかの熱心な信者ってわけじゃないんだから。それは奈緒美のやり方で供養してあげればいいの」と母は強く言った。ぱちのことを通して、今まで知らなかった母の一面を垣間見る機会がたびたびあり、それがわたしの支えにもなって、気付かせてくれたことでぱちに改めて感謝している。逝ってもなお存在感を放つ。大した猫である。
こないだ読んだ「死では終わらない物語について書こうと思う」(釈徹宗/文藝春秋)。さまざまな死の現場の物語を集め、釈先生がかみくだいて紹介した本で、その中にこんな一節があった。
「岡部はあるとき、お迎えがあった患者はほぼ例外なく穏やかな最期を迎える、と気づいたそうです(中略)。『死期が近づくと患者さんは食べられなくなり、水分を受け付けなくなり、血圧が下がり、嚥下ができなくなる。これがナチュラル・ダイイング・プロセスである。血圧が下がって脱水症状になり、脳循環の機能が低下した結果、【お迎え】現象が出現するようになっているのかもしれない』」
ぱちが逝く2日程前からの状況が書かれてあることとまさに一致しており、ということはぱちはとても自然で穏やかな形でその瞬間を迎えられたのだろうと思えた。悔やまれてならないのが息を引き取る瞬間に立ち会えなかったことで、でもこの一節に出逢って少し救われたのだった。息を吸い込んだ瞬間に心臓の鼓動がふっと停止した、かのようなとても穏やかな表情で永遠の眠りについていたぱちが思い出される。
鎌倉のSさんから小包が届いた。開けたら猫のご飯が箱いっぱいに詰まっていて、ぱちちゃんの供物にとの手紙が添えられていた。銀座のきもの屋の女将は「一年早いね。今夜は献杯します」とメッセージを寄越してくれた。そしてこの日記に何度も励ましの言葉を送ってくれたSさんからもあたたかいメッセージが書き込まれていて、思い出してくれる人たちのかけがえのなさが胸に沁みた。
いろいろと、尽きない。尽きなさすぎて散漫な一周忌日記になってしまった。家の中がさみしいことに慣れてしまったけれど、外で過ごしているときはさみしくないわけで、家をさみしくなくする必要もない、さみしい領域のひとつふたつもっていていいのだろうと思う。このさみしさはぱちと過ごせて幸せだったことの結果生まれた感情なのだもの。友人が子どもの頃一緒に暮らした犬のことを時折思い出して、胸のうちがあたたかくなる、と話してくれた。一年たって、まだまだその境地に達し得ていないけれども、わたしにもいつかぱちを想って涙ではなくあったかい気持ちだけで満たされる日が来るだろう。それにはまだ時間がかかりそうだ。
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野良猫のお食事処
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2016-09-03T00:56:00+09:00
2016-09-05T07:24:08+09:00
2016-08-30T11:05:32+09:00
naomu-cyo
猫
愛猫ぱち存命の頃からちょくちょく庭を訪れていた目つきの鋭い野良猫(オス、ブサと命名)は相変わらずやってくる。よくぱちのお余りをあげていたのだが、ぱちが逝って後はこれもぱちが結んだご縁なのだろうとお供えの缶詰をあげるなどしていたら、ほぼ毎日やってきて時には居続けなどし、すっかり常連になった。とはいえ、野性のタチは失っておらず、飯で釣って触ろうとするとものすごい速さで引っかかれる。大したもんである。
この夏、近所で子を産んだ母猫が時々訪れるようになった。来ると網戸越しに甘ったるい声で、にゃあにゃあ、来たよ、にゃあにゃあと鳴いて知らせる。ほかに白黒の大柄のもやってくるのだが、こちらが姿を見せると縁台の下にひょいっと隠れてしまうほどに臆病で、その姿を稀にしか見かけない。
ブサ向けに出した飯をあてにしてほかのもやってくるのだろう、なんとはなしに猫用のお食事処が常設状態になっている。そのブサと母猫が相見える機会があった。ブサが居続けを決め込んでいるのだから当然である。これまでブサの声など聴いたことがなかったのだが、母猫を前に聴いたこともないような声で歩み寄っているのだが、どうにもつれない態度を示されている様子。それが証拠に、母猫はブサが近付くと軽快にその場を去る、ブサは不思議な声をたてながら追いかける。人んちの庭(わたしのじゃなくて大家の庭だが)で女を口説くなんて、ブサったらなんて無粋なんでしょ、などと思うが、こちらのことなどとんと眼中にない様子である。それにしても、ブサの毛艶が良くなったように見えるのは気のせいか。飯の供給が安定しているからなのか恋ゆえか。
ぱちが逝ってから10ヶ月になる。去年の夏、ぱちの看病をしながら詠んだ俳句もどきを部屋に貼ってあるのだが、今時分には食欲が快復し、一気に弱ったとはいえ小康状態だった。去年の夏はぱちとともにあった。それ以外に何があったのかなんて、微塵も憶えていやしない。今年の夏はどうだったろう。振り返れるようで振り返れない。毎日それなりにしっかり生きているつもりでも、過ぎてしまうと忘れてしまうことのほうが圧倒的に多くて、記憶に残すあるいは残るには強烈な刺さり方をしないとなかなかに困難なことなのかもしれない。日常は流れゆく。流していっているのかもしれない。
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嗚呼、なめられたか
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2016-08-21T11:46:00+09:00
2016-08-21T11:48:21+09:00
2016-08-21T11:46:47+09:00
naomu-cyo
猫
ガス台下のゴミ箱付近で二度とも遭遇。本虫は隠れているつもりなのだろうが、そのインパクト大のビジュアルはちょっとだけしか見えていなくてもすぐわかる。
去年の冬のはじめに逝った愛猫・ぱちが住まっていた頃は、夏の間ほうぼう開けっ放しにしていても、かの虫の姿を見ることは数年に一度あるかないかの出来事だった。ぱちがいなくなって迎えた初めての夏、まさか二度も遭遇するとは。嗚呼、なめられたか。わたしひとりと知って呑気にほいほい現れたのか。
そっと靴箱の前に移動し、扉を開ける。そこにはここに住み始めたときに実家から送られてきたゴキジェットが鎮座ましましているのだ。使用期限などはとっくの昔に切れている。なにせここに住まってかれこれ20年近くたつのだから。しかしその殺傷能力の高さはこないだの出没時に確認済み。今回もまたそれを取り出し噴射、噴射。見事仕留めた。
薬剤噴射の後片付けをしながら、涙がにじんできた。ぱちが逝って半年以上たっても、生前のことに想いを馳せるといまだに涙がとめどなくあふれてきてさみしい気持ちでいっぱいになる。ぱちや、あんたがいたときは、かの虫は寄り付かなかったんだよ。ぱちが仕留めていたとは思えないけれど(まずかの虫の動きに追いつけまい)、威風堂々ぱちの存在感におそれをなして寄り付けなかったんだよ。やっぱりあんたはすごかったね・・・こんなところにもその存在感の大いなる理由が見いだせてしまって、しんみりとした夏の夜となったのである。
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新顔猫
http://muucyo.exblog.jp/22841791/
2016-05-25T03:13:00+09:00
2016-05-25T03:17:53+09:00
2016-05-25T03:13:20+09:00
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猫
ちょっと前から我が家の縁側に新顔の猫が通ってくるようになった。ある朝視線を感じて外を見たら、網戸の向こうからこの猫がこちらをじっと見ていた。目が合うと甘い声で「にゃあー、にゃあー」と鳴いた。すかさず遺影のぱちに「新顔が来てるよ!」と報告。ぱちの生前から時々来ている野良君もいるが、この猫は近所でも見かけたことがなかった。わたしがいつまでもぱちの不在を悲しがるもんだから、猫仲間を寄越したのかもしれない。
仏前に供えている猫飯をためしにぱちが使っていた飯椀に入れて差し出すと身体をひょいっと後退させたけれど、わたしが離れるとしずしずと食べ始めた。終わるとそこに寝そべってすっかりくつろいでいる。近付くと身構えるので、不必要に驚かせるのもなんだからそのまま室内と縁側の距離を保ち、ときどき姿を確認した。毛が長いけど、胴体も長い。雌であることも判明。いくつくらいだろうか。
以前からきている野良君を近所でよく見かける。だいぶ動きが鈍くなり、心なしか後ろの片脚をひきずっているようにも見える。そこそこな歳なのかもしれない。こっちの猫は短躯でブサイクで警戒心丸出しで、いかにも野良歴の長さを思わせる。猫飯をあげるとわたしの気配を感じなくなるまで食べに出てこない。見上げた根性だなあと毎度感心する。新顔猫をこないだ近所で見かけたが、完全にわたしをスルー。お互いの安否確認関係ができあがりつつあると思っていたのだけれど、なかなか気を許してはもらえないらしい。
声をかけたらたちどころにわたしの脚にすり寄ってきたぱちは野良にあるまじき猫だったのかもしれない。そのまま我が家についてきて部屋に上がり込んで、最初は外と中を行き来する暮らし方だったけれど、無断外泊は一回しかしなかった。わたしが帰ってくると、どこからか足音をききつけてにゃあと言いながら足元にやってきて、鍵を開けると我れ先に部屋に入って飯くれろと大騒ぎしたっけ。外で大けがしたときも自力で家に戻ってきた。ぱちは雨風しのげる屋根と毎日のご飯と保護を強く求めていたのかもしれない。求めてくれたおかげで、わたしも得がたい時間を過ごした。稀有な出逢いだったんだなあ、きっと。
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毎月4日は
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2016-05-06T02:58:05+09:00
2016-05-06T02:57:46+09:00
2016-05-06T02:57:46+09:00
naomu-cyo
猫
ぱちがこの世を去ってから半年が過ぎた。想わない日は一日たりともなかった。毎日のようには泣かなくなったけれど、今でもふとした瞬間にぶわっと涙がこみ上げてくる。ぱちの世話が組み込まれていた日常が少しずつ遠のいてゆくのがとてもさみしい。見えなくなってもずっとどこまでもわたしにまとわりついていて欲しい。
きのうは7時半に集合の撮影だったから、うんと早起きして魚を焼いてぱちの場所に供え、お余りを朝食にいただいた。食欲不振に陥ったぱちにといろんな魚を買ってきて、片っ端からさばいたり小分けにしたりして冷凍庫に保存してあった分があと3切れになっていた。帰宅して供えていた魚を軒先に出しておいたら、今朝にはお皿が空になっていた。最近軒先に二匹の猫がやってくる。一匹はぱちの生前にもよく見かけた猫、もう一匹は新顔。数日前、その新顔のほうが網戸越しにこちらをのぞいていて目が合った。姿を見かけると、ぱちに供えている猫飯を器に入れて軒先に置くようにしている。ぱちは逝ってしまってもこうして功徳を積んでいる。
いつまでもじめじめしていると思われるのもなんだから、なるべくぱちのことを書いたり話したりするのは控えるようにしている。それでもこの連休前半に帰省したときには、正月に帰省したとき同様にぱちの遺影と骨壺を伴った。母はまた遺影のぱちに声をかけていた。父と弟は何も触れてこない。毎日生活している空間よりも実家のほうに色濃くぱちの名残りがあるような気がするのはどうしてだろう。
ぱちが逝ってから二度、寝ているときに強烈に気配を感じたことがあった。一度目は寝ているわたしの脚の上にうずくまっていた。もう一度は寝ているわたしの肩のあたりに顔を突っ込んで眠っていた。あ、ぱちがいる、と感じながら眠り続けた。またそんなふうに感じたいから、寝るときはいつも枕の半分は空けてある。よく枕を半分こして眠ったっけ。寝床に入ってぱちの遺影のほうを向いて一日の出来事をざっと話し、「いつでもおいでね。おやすみ」と言って眠る。きっと居るのだろうと思うけど、わたしがあまりに爆睡しすぎて気付いてないのかもしれない。
こないだ舞台の現場に撮影に入った折、衣装のJさんと久しぶりにお逢いした。「武藤さん、猫ちゃん元気?」と尋ねられ、去年の秋に逝ってしまったことを伝えると、Jさんも1年半前に21年生活を共にした猫を亡くしたんだそうで、そこからしばし亡き猫とその後の生活のことを話した。Jさんは過去に亡くした猫たちの遺骨は都度都度納骨してきたけれど、21年暮らした猫の納骨にはいまだに踏み切れないとのこと。わたしはずっと手元に置いておくつもりと伝えた。「猫の毛だらけになっちゃうとまずいから、衣装は床には置かなかったんだよね。それがさ、いなくなっちゃったもんだから床に置いても平気になってさ。なんか、そういうのさみしいよね」と。うん、さみしい。いないことで生じる生活の変化がさみしい。ひとりの生活は静かだ。ぱちは寝ているばっかりだったけれど、寝ていても存在の主張があったわけで、それがないということがこんなにも静けさをもたらすのかと、半年たっても静けさにはっとする瞬間がある。今でもぱちをなでた指先や手のひらがその感触を憶えているけれど、いつかこれも消えてしまうんだろうか。時間の経過は癒しをもたらすのかもしれないけれど、忘却を伴うのだとしたらこんなせつないことはないなあって思う。
ばっちいのは百も承知で、ぱちと最後に眠りそこでぱちが逝ったときのシーツを洗えずにそのまま毎日そこで眠っている。まだ洗う気になれない。
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写真展、よもやま噺、まねき猫。
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2016-03-20T03:50:38+09:00
2016-03-20T03:50:34+09:00
2016-03-20T03:50:34+09:00
naomu-cyo
猫
見に来てくれた友人たちと話しながらも、メッセージノートになにやら書き込んでいる老婦人とそこに寄り添う男性の姿は視界に入っていた。おふたりがエレベーターを待っているところに「どうもありがとうございました」とお礼を伝えたところ、「あなた、奈緒美さん?」とご婦人が。「ハイ、武藤です」と返すと、うっすら涙を浮かべられ、鎌倉からいらしたこと、わたしのブログをずっと読んでくださっていたこと、ぱちのファンだったこと、ご自身も猫を亡くされた経験があること、3年前にアメリカから戻ったことなどを告げられた。アメリカでもあなたのブログを読んでいたの、コメントを書き込んだりしたことはなかったけれど、帰国して今回写真展のことを知ってこれは行かねばと思って。手土産を持参していたんだけど電車の網棚に忘れてきてしまった、見つかったから改めてあなたに送ります、とおっしゃった。うわ、ぱちがご縁をまねいた、と思った。
その日、ずっとぱちにメッセージをくれていた宮崎はんと、ぱちが逝った後にとにかく一緒にご飯しようと誘い出してくれた消しゴムはんこ職人のとみこはんと、3人でご飯をすることになっていた。そして、ふたりに見せるつもりでぱちの遺影を携えていた。ご婦人に「実は今日、ぱちの遺影を持っているんです」と伝えたら「見せてちょうだい」とおっしゃって、これ以上ないってくらい愛おしげに遺影を見つめ、ぱちちゃんいい子だね、エラかったね、と一心に話しかけた後でわたしに向かって「ぱちちゃんはあなたのそばにいるから、大丈夫よ」と力強くおっしゃった。あわわーっとなって涙がぼろぼろ出てきた。
この写真展の期間中に、ぱちへの悔やみのメッセージを書き込んでくださった方や、ぱちのことを思って猫にちなんだお菓子を持参してくださった方、わたしとぱちの似顔絵ラベルの付いたワインを持参してくださった方、お線香を差し入れてくださった方がいらした。ぱちちゃん残念でした、とこちらのことを慮ってくださる方が何人もいらして、ありがたい気持ちと同時に再びぱちってばすごいと感動した。はかなくなっても引き続き人との縁をまねき寄せつないでくれる。なんというはからいだろう。
ぱちよ、いつまでもあなたのことを身近に感じられるよう、そんなはからいをこれからもよろしくね。
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「人と動物の関係」〜ある日の新聞記事から〜
http://muucyo.exblog.jp/22533938/
2016-02-28T02:20:00+09:00
2016-02-28T02:48:34+09:00
2016-02-28T02:20:48+09:00
naomu-cyo
猫
毎日新聞は読み物が多い。ある出来事や事件を連載で追っかけたりする記事も多い。概ね生活者目線でそこが魅力でもある。日曜版で連載されている海原純子さんの「新・心のサプリ」もお気に入りの連載で、ちょいちょい切り抜いて残してある。いずれ書籍化されることを願う。
その「新・心のサプリ」、ある日のネタが「人と動物の関係」についてだった。愛猫ぱちを喪くして少し後の記事だったと記憶している。去年の北関東の豪雨で堤防が決壊したとき人間とともに犬も救出されたが、それについてネット上では「よかった」という意見と「緊急事態に犬を救出するなんて」という意見とがあったらしい。海原さんはドイツ人の友人の話を紹介しており、かの国では同行非難以外の可能性というのがそもそもないから、議論にもならないのだという。一方で日本のように動物に服を着せて過剰に可愛がるという風潮もなく、「動物は動物以上でも以下でもないという考え方が浸透」し、「それでも動物は仲間なので、置いていくという選択はない」とのこと。
海原さんはこの違いを、「横」のつながりでとらえるか「縦」のつながりでとらえるか、動物に対する接し方の差であり、どちらがいい悪いということではないが、ご自身は断然「横」のつながり派で、共に生きるという意識でとらえていると述べておられる。「助けられる限り助け、助けられない時も、動物なんだから当たり前ではなく、『ごめんね』と思う謙虚さをもつ方が、あたたかい社会になる」だろうとしめくくっている。ああ、同感。強く同感する。生物同士、命をいたわり合うのは当然だとわたしも思う。
横のつながりでずっととらえてきたから、ぱちを喪くしてこのかた、親友を喪くしたかのような気持ちがずっと続いている。この間お逢いした女性から、「そういう悲しみ方では猫が成仏できないわよ」と指摘を受けた。左肩のあたりで心配そうな顔してるわよ、ほかの猫と暮らしていいんだからと言ってるわよ、とも言われた。ぱちは長いことわたしにとって唯一だったから、とてもじゃないけれどほかの猫と生活することなんて考えられない。もうすぐ4ヶ月になろうとしているが、毎日なんかしらの瞬間にぱちの在りし日の姿が目に浮かんで、逢いたいなあなんで逢えないんだろうという気持ちが繰り返される。気持ちのもっていき処がみあたらないから、お線香をあげ遺影に話しかける。
今月あたまの土曜日に熱を出して寝込んだ。幸い一日半の寝込みで済み、その後全快したと気が緩んでPCの前に突っ伏して寝てしまった夜があった。突然「にゃあ!」とぱちのひと鳴きを聴き、はっとして目が覚めた。あ、風邪がぶり返さないよう起こしてくれたんだ、と思った。姿は見えないけれど、そばにいてくれているんだなあと思い、ありがたいやらでも逢えなくて悲しいやら、相変わらずしおしおとした時間は常にどこかにある。ドイツの人はこんなときどう考えどのように悲しみを手放すのだろうか。
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月命日
http://muucyo.exblog.jp/21894656/
2015-12-04T12:44:54+09:00
2015-12-04T12:44:56+09:00
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naomu-cyo
猫
生身のぱちにはもう二度と逢えないことを痛感させられる毎日だ。日を追うごとになんでいないんだろう、なんで触れられないんだろうというやりきれなさばかりが際立って、涙が出ない日はない。きのう父と電話で話して、「どうだ、少しは落ち着いたか」と訊かれた。全然だよ、まだ無理だ、と返すと、「やれることやったんだからもうそろそろいいんじゃないか」と言う。やれることやったからとかそういうことじゃないんだよ、としんみり返した。いついつまでにケリをつけるとか、この日を境にもう絶対泣かない、とか、きっちり線を引くことはとうてい無理な相談で、そういう類いのものでもないのだ、こればっかりは。
つい先日、長くお仕事をいただいている女性編集者が取材を終えての別れ際に、「お逢いしたときに直接言おうと思ってて・・・」と言いながらすでに涙目になっていて、「ぱちちゃんのこと、ほんとうに残念でした」と言い終える頃には号泣していた。彼女は20年前に愛猫を亡くし、いまだに残り毛が出てきたりすると泣いてしまうそうで、当時の悲しみを思い出しながらこちらを慮り冥福を祈ってくれているのがひしひしと伝わってきた。浅草の人通りの多いところにも関わらず、ふたり寄り添っておいおい泣いた。20年たってもなお。悲しみに消費期限はないのだ。ぱちよ、なんという置き土産を残していったんだい。悲しみ袋をいつも内包しながら生きてゆくことになるのか。でもこれはきっとたくさん愛情を注ぎたくさん幸せにしてもらった側が引き受けていかざるをえないものなのだろう。
目に映る風景に、もういないぱちの在りし日の姿を浮かべて日々を送る。ぱちがまだ外を出回っていた頃。アパートが近付くとどこからともなく「にゃあ」と鳴きながらてててっと走ってきて、わたしをまるでいざなうように先をゆき、ドアが開くのを待っていたっけね。ほんとはいったいいくつだったんだろう。うちに住み着く前はどんな猫生を歩んできたんだろう。震度5の地震でも一向に起きずにいびきをかいて寝ていたあの泰然自若とした安定感はどこで育まれたものだったんだろう。いつの頃からか、わたしが守っているのではなく、守られているような心地になった。わたしの中で母なる存在、大地のような存在となっていたぱちだった。
きのう友人がぱちに線香をあげにと家に寄ってくれた。数年前に父親を亡くしたその人は、夢に出てくるのはまだ先だよ、今はあっちに向かっててくてく歩いている最中だから。遠い場所から順々にめぐって最後にそばにいた人の夢に出てくるよ、と話していて、なんだかそれが妙に説得力があった。じゃぱちはきっと実家の父母の夢に出た後にわたしの夢枕に現れるのかな。猫の歩みじゃ時間かかりそうだけど、飛ぶようにめぐって早くわたしのところに出ておいで。化けて出てきたっていいんだよ。
月命日のお供えには魚を焼いた。お余りはぱちの生前そうしていたようにわたしの朝ご飯になった。蜂蜜入りのお水と、盛岡の吉田さんから届いた早池峰のヨーグルトと、神永さんからいただいたご著書とを供えて、なかなかにぎやかなぱちの場所になった。写真を撮る。もう動いているぱちは撮れないんだなあと、ひと月たってもまだ思う。ぱちの体温、ぱちが放っていた音、ぱちの存在感、まだちっとも遠くならずに部屋の中にこごっている気がしてならないのに、いないんだなあ、ぱちは。
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さみしいという感情が
http://muucyo.exblog.jp/21882051/
2015-11-30T12:03:54+09:00
2015-11-30T12:03:55+09:00
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naomu-cyo
猫
ぱちが逝ってしまってから、さみしいという感情が板についてしまった。朝目覚めたとき、夜眠るとき、仕事以外の時間に常にさみしいという感情がまとわりついてくる。ぱちがいた頃ついぞわたしの内に起きなかった感情。彼と別れても休日に逢う友人がいないときでも、さみしいなんて気持ちこれっぽっちも湧かなかった。ぱちが、さみしいという感情からわたしを守ってくれていたことに気付いたのは、ぱちを失ってからだった。
時間の経過とともに薄らぐどころかますますその気持ちが増してゆく。さみしいなあ、ぱち、あんたがいなくて、ほんとうにさみしいよ。さみしいって感情を初めて知ったみたいに、途轍もなくさみしいよ。なんでそばにいないのかが不思議だよ。はかなくなったぱちを抱いてたくさんありがとうって言って、あっちの世界にたしかに送り出したはずなのに、そばにいないことが不思議でならないんだ。
今日は夕方から撮影で、その前に2,3片付けなきゃいけないことがあるので、自宅で朝からPCに向かっている。ひとつ片付いたところで、宅配便が届いた。猫関連もののウェブショップ「吾輩堂」に注文していた猫に関するエッセイ本2冊。知人から送られてきた「きものモダニズム展」のチケットの入った封筒には、ベトナムの猫の切手があしらわれていた。猫、猫、猫。猫の意匠も猫そのものもあちこちにいるのに、ぱちがいない。ぱちのぶよんとしたおなかをつっついて怒らせたいのに、触れることすらできないんだ。耳元でぱちにいびきかかれて寝付かれなくてなんて夜ももう来ないんだ。日にちが過ぎるごとに、失われてしまった瞬間がいくつも思い出され積み重なっていって、それらがさみしいという大きなかたまりになってわたしを襲ってくる。
さっき、部屋に日溜まりができていたので、ぱちの骨壺をそこに置いた。生前ひなたぼっこしていたみたいに。ぱちの骨壺と遺影が置いてある場所にいっとき日が差す時間帯がある。日があたってそこが輝くたびに、ぱちの毛がきらきらしていたのを思い出す。もうじき月命日がくる。なんともいいようがない時間感覚はいつまで続くのだろう。
(写真は2008年撮影。名刺の裏に刷ってある写真)
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大阪人の励まし
http://muucyo.exblog.jp/21870272/
2015-11-27T00:33:00+09:00
2015-11-27T00:59:25+09:00
2015-11-26T12:35:26+09:00
naomu-cyo
猫
彼女も去年末に実家の愛猫を亡くしている。チンチラの男子で心臓発作で亡くなったとのこと。「父親が死んだときよりも悲しんでるんちゃうか、ってくらい家ん中が暗くなってさ」と彼女。特にお母様のショックが大きく、そして離れて暮らしていたとはいえ猫君に逢いたくてこまめに帰省していた彼女のショックも相当だったとのこと。葬儀の日大泣きした妹は、翌日ネットで売りに出ているチンチラがないか探していて母親の逆鱗に触れたとのこと。「多分、思考回路が違うねんなあ、妹は」とEさんは笑う。
彼女はわたしの話を受け取りながら、間の手を入れるように愛猫の思い出をこうして笑って話せるに至るまでの道のりを、きかせてくれた。とても情の深い彼女のことだから、その道のりは平坦ではなかったと思う。わたしが、仕事しているときは平気なのに、ふとした隙に涙が止まんなくてと言うと、「わたしも、電車乗っててもな、構わずに泣いてたわー」と目を潤ませながら笑顔で言う。虹の橋のふもとでぱちはむーちゃんが来るのを待っとるから。どんなにこっちが老いた姿で行っても必ず待ってて気付いてくれるんやて。で、一緒に虹を渡るんやて。その前に生まれ変わってくるかもな。そしたらちゃんとむーちゃんにはわかるで。今度はその猫と暮らしたらいいよ。
ぱちはいつもと同じように寝床で逝ったんやろ?そら幸せだわー。うちのなんて、いきなり泡吹いて逝きよった。何を思ったのか生き返るかもしれんって年末でも救急対応してくれる病院探して診てもらったんだけど、臨終だって言われて。今更ですが死因はなんですかってきいたら、太り過ぎの心臓発作ですね、って言われてん。8キロもあったんよ、うちの猫。血統書付きなのにうちみたいな家にもらわれて、ほんとは芦屋のお屋敷とかでもおかしくないのに。で、出されたもんなんでもがつがつよく食うて、でっかくなって、そんで心臓発作や。でもおかんが苦しかったのは最期の一瞬だけで済んだのがせめてもや、って。むーちゃんちの猫もうちの猫も、病院にあんまりかかることなく長生きして自宅で逝って、万々歳のえらい猫や。えらいんよ、むーちゃんちの猫。
うちの猫もむーちゃんちの猫も、毎日同じ風景見て同じようなもん食べて、そんなんを10何年も続けてきたわけやん。うちらはさ、毎日出かけていろんなとこ行けるいろんなもん食べられるけど、猫たちはさ10何年も同じだったら飽きたわもうええかなって思うと思うんやわ。最期に立ち会えなかったのをむーちゃんは悔やんでるけどな、いつものように仕事に行く姿を見送ってそんで安心して逝ったんや。これが仕事もないカメラマンで、ずっと家に居るような状況だったら猫も心配するで、うちらの生活大丈夫やろかって。よかったやんか、このご時世に仕事があるカメラマンで。だから安心してぱちも長生きできたんやんか。
彼女と郷土料理の飲み屋さんで向かい合わせに座って、オーダーするのも忘れるくらいたくさん話をしたりきいてもらったりした。なんでだろ、涙が止まんないのに、彼女の言葉の端々についくすっと笑ってしまうのは。うねり上がってくるような力強さが彼女の発する言葉の中に宿っていた。大阪人DNAと彼女の備えた情の深さからくるものなんだろうか。じきにな、ありがとうって気持ちでいっぱいになって笑顔で思い出せるようになると思うんよ。それまではしんどいしいっぱい泣いたらええやんか。いつでもこうしてご飯一緒に食べるからさ、遠慮せんと連絡寄越しー・・・そう言って彼女は丸の内線に向かった。彼女の前で手放しで泣いて、帰宅してからぱちの遺影にEさんのことを報告して、またびーびー泣いた。ぱちや、あなたの写真の前でにっこり笑える日はまだまだ先になりそうだけど、Eさんが言うようにそんな日がきっと来ると思うから、もうちょっと待っててな。
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名残りを惜しんでも、なお。
http://muucyo.exblog.jp/21863391/
2015-11-24T13:06:00+09:00
2015-11-24T20:44:10+09:00
2015-11-24T02:59:26+09:00
naomu-cyo
猫
10月半ば過ぎにぱちのうんこが出なくなったあたりから、今日仕事から戻ったらぱちはもう息をしていないかもしれない、と覚悟して出かける日々だった。ひとりで逝かないでよ、待っててよ、と言い聞かせるも、万が一を考えて心残りがないようにと思う存分なでたりさすったりおでことおでこを合わせたりして出かけた。覚悟をし思う存分名残りを惜しんであったつもりでも帰宅して息をしていなかった4日の夕方から、後悔の念が消えない。
こんなにも想いのかぎりを尽くしたって、やはり後悔はするのだ。ああすればよかったかもしれないと繰り返し思うのだ。このことを通して、気まずいままうやむやにお別れをするべきじゃない、それが最後になる可能性だってあるのだから・・・と思うに至った。友人と食事をして「じゃあまたね」というような日常繰り返される別れにももちろん言えることだ。
ぱちが逝って後のとある取材時のこと。待ち時間にクライアント女性とお茶を飲みながら話をした。最近忙しくて帰りも遅くて、きのうついつい旦那さんにやつあたりしてしまい、今朝ひとことも話さずに取材にきてしまったというような話だった。今回ぱちのことで、覚悟して今生の別れになるかもとめいいっぱい名残りを惜しんでいても、実際に逝ってしまうとやっぱり後悔の念にさいなまれるんだから、喧嘩したままなんていけない・・・というようなことをわたしは返した。帰り、新幹線の駅のお土産売り場で、「お土産買っていきましょ、旦那さんに」と声をかけた。余計なお世話には違いないんだが。
日々は一期一会の積み重ねなんだということを、ぱちが改めて気付かせてくれた。毎日繰り返されているように思えることでも、それは元をたどれば一期一会の連なりなのだ。毎日逢う人だってそれは出逢いだし、お疲れさんと帰るその瞬間だって別れなのだ。それが一度きりの出逢いだったり今生の別れだったりすることもあるってだけで、日々は一期一会で構成されている。ぱちとの15年の日々も一期一会の連なりだったんだ。細かくいっこいっこを記憶していないのがひどくもったいないことをした気にさせる。さすがに15年分の一期一会は記憶しきれないけれども。
目覚ましが鳴って寝床から這い出て止めに行く。振り返るとぱちも布団から出て枕の上で伸びをしている。そこからのっそり降りてきてご飯場所に歩いていく。こっちがカーテンを開けたりしている間、ずっとご飯の器を見てる、まるで天からご飯が落ちてくるのを待っているみたいに。こっちもわざと引っぱってのろのろ水をかえたり猫砂をかえたりしていると、しびれをきらしてぎゃあぎゃあ言い出す。ハイハイハイ、と器を洗ってご飯を入れてあげる。がつがつと脇目もふれずに食べ始める。そんな朝の光景はもう失われてしまった。毎朝同じようでも、それは新しい朝なのだった。一日たりとも同じ朝ではなかったのだった。尊い朝の連なりだったんだ。
(写真はぱちの見舞いにきてくれた岡田さんに撮ってもらったもの。10月上旬だったか)
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