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2011年 10月 22日
久しぶりに2日連続でみっちり落語の世界へ。触れているだけでふっくら幸せな気持ちが満ちていく、それがわたしにとっての落語観。聴き始めてまだ7年、聴けば聴くほど奥行きの深さを感じ新たな発見がある、まるで飽きのこない娯楽だ。
![]() 市楽 「芝居の喧嘩」 市馬 「二十四孝」 市馬 「風呂敷」 仲入り 市馬 「不動坊」 「二十四孝」という噺は前々からなんでか苦手で、まともに聴いていられたことがない。どんなに好きな噺家さんがやっていらしても必ず途中で気が遠くなる(ま、つまりは寝てる)のだが、市馬師匠で初めて最後まで楽しんだ! 落語の感想をしたためようとするとき、言葉で表現できないことが多すぎる。聴きながらだと、「市馬師匠のこの感じがすごく好きなの!」と思ってきゃあきゃあする瞬間があるのだが、その「この感じ」を言葉にするのは難しい。しかも「この感じ」はすごく主観的かつ個人的なものだったりするからなおさらである。 市馬師匠の落語に感じることでひとつはっきりと言葉にできるのは、「おおらかさ」だ。身体の大きさが影響するのかどうかわからないが、師匠の高座にはいつも「おおらかさ」が漂う。どんな登場人物も最初から受け入れている感じとでも言おうか。圓朝噺をおやりになったらその「おおらかさ」がどうなるのか聴いてみたいなあと思って、「師匠は圓朝噺をおやりにならないんですか?」と尋ねたことがある。「圓朝?あはは、ほかの人に任せるよー」とやはりおおらかに笑っていらした。たしかに市馬師匠が選ばなさそうな噺だけど、むしろそのギャップを聴いてみたいなあ・・・などと、勝手に妄想してしまったりするのだ。 師匠の噺からは、かつて日常であったろう風景が感じられる。音も匂いも風も、流れる時間も。今では失われてしまった生活の姿は市馬師匠が知っている、いや、師匠の高座に宿っているんだ、きっと。 (写真:この落語会に着て行った着物。世田谷ボロ市で大いに値切った大島紬(推定)に、ヨーロッパのテーブルクロスみたいな帯で)
by naomu-cyo
| 2011-10-22 12:57
| 落語
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