フォトグラファーの武藤奈緒美です。日々感じたことや思ったことを、写真とともにつれづれなるままに。


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ひたすら、よむよむ〜「書楼弔堂 破暁」ほか〜

 年が明けてからこっち、撮影三昧。ほぼ毎日いろんな場所でいろんな撮影をしている。事務所に戻れば写真のセレクトと納品の嵐で、遊びに行くのもままならない。それでもうまいことバランスが取れているのか、疲れ知らずで楽しく過ごしている。

 こんな日々のとき、自分にとって読書が大の娯楽であってよかったわとつくづく思う。落語や舞台に行ったり友人を誘って飲みに出かけたりが難しいけれど、読書なら隙間の時間で事足りる。なので、ここぞとばかりに本をどしどし購入し片っ端から読んでいる。

 芥川賞と直木賞が発表になった翌日、撮影帰りに事務所にいちばん近い本屋に寄った。目的は姫野カオルコの「昭和の犬」(幻冬舎)。大々的に受賞作家のコーナーができているかと思ったら、そんな形跡は微塵たりともなかった・・・おいおい本屋だろ、と心の中で毒づきながら棚を見回して、「受難」(姫野カオルコ/文春文庫)と「たとへば君 四十年の恋歌」(河野裕子・永田和宏/文春文庫)、「書楼弔堂 破暁」(京極夏彦/集英社)を購入。これが三者三様ながら見事大当たり。豊かな読書時間をいただいた。

ひたすら、よむよむ〜「書楼弔堂 破暁」ほか〜_a0025490_105287.jpg
 敬虔なるクリスチャン・フランチェス子の股ぐらに人面瘡ができるという突拍子もない展開の「受難」は、いち独身女性である自分も大いに思うところがあった。フランチェス子によって「古賀さん」と名付けられた人面瘡は、ことあるごとにフランチェス子の女としてのいたらなさを(股ぐらから)口汚く罵る。どこまでも神に仕える者としての心持ちを維持する彼女は決してぐれたりさからったりしない。読み始めはあまりに荒唐無稽で馬鹿馬鹿しいかに思えたふたりのやりとりだが、フランチェス子の乙女の祈り的な姿に接するうちに徐々に優しい気持ちに浸される。

 「書楼弔堂」、久しぶりの京極夏彦作品。時は明治半ば。坂道、古本屋・・・と出てきたところで、「ん?これはもしや・・・」と気付く。京極堂こと中禅寺秋彦が主人公のあの「姑獲鳥の夏」以下のシリーズとやけにシンクロする。でもこっちは明治の設定だし・・・と読み進めると、弔堂を訪れる人たちはなんとなんと!な人たちばかり。月岡芳年が!勝海舟が!泉鏡花が!・・・と同時に、これらの人たちが同時代に呼吸していたんだと知って驚く。すごい時代だったんだ、と溜息がもれる。そして最後の最後に、武蔵晴明社の宮司として中禅寺という人物が出てくる。古本屋・弔堂の主と宮司・中禅寺。これはやはり京極堂の物語のずっと以前にあたる物語にちがいない、と確信したところで「破暁」は終了した。いやはや、続きが楽しみでならない・・・!

 「たとへば君 四十年の恋歌」は、かねてより作品たちに触れてみたいと思っていた歌人・河野裕子さんの生と死を、夫で歌人の永田和宏さんが河野さんのエッセイや互いの歌を織り交ぜながらまとめたもの。河野さんと出逢ったばかりの頃の永田さんの歌の硬さは、彼女と結婚し家庭をもち状況が変化していくにつれてとても感覚的でナチュラルな表現に移行していったのが感じ取れる。一方河野さんの歌は、病を得てから以降とみに生命が輝き出したようで、圧倒させられっぱなしだった。なんというすさまじさ、なんという神々しさだろう、生を希求する姿というのは。家庭人としての彼女、歌人として死ぬ直前まで歌を詠んでいた彼女、どちらの姿もはっきり見えてきそうなほど、短歌という表現の中に彼女があふれていた。

 いやあ、読書ってやっぱり素晴らしく楽しい。どっこも遊びに行けなくたって、物語の世界に埋没すればたちどころにわたし自身はひっこんで、傍観者としていろんな世界を垣間見れる。2月半ばくらいまで、こんな日々が続きそうだ。さて次はどの時代の傍観者になろうか。

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by naomu-cyo | 2014-02-01 01:02 | 読書 | Comments(0)