瀬をはやみ〜「恋歌」(朝井まかて)を読む〜
2014年 02月 11日
あ、またこの歌だ・・・直木賞受賞作「恋歌」を読んでいたら、物語の山場のひとつで崇徳院の歌が引かれていた。わたしが百人一首の中でいちばん最初に憶えた歌。いや、もしかしたら人生のいちばん最初に憶えた歌かもしれない。
最初にこの歌に出逢ったのは漫画「はいからさんが通る」(大和和紀)で、小学二年のときだった。大正時代を舞台にしたこの作品には、今振り返れば将来の好奇心に繋がるものがあちこちに散らばっていて、自分の趣味嗜好のルーツはここにあるのではと思えるほどだ。きものを着たくなったのだって登場人物の女学生の矢絣に憧れたからだし、竹久夢二や島村抱月、松井須磨子を知ったのも、ロシア革命に興味を持ったのも、編集者という職業に憧れたのも、「はいからさん」が発端だ。何度も読み返すうちにこの歌はすっかり記憶された。崇徳院の不遇な人生については、日本史の授業で知った。
次にこの歌に出逢ったのは落語「崇徳院」。恋患いの若旦那を助けようと熊五郎が奮闘する噺。「瀬を早み 岩にせかるる 滝川の」という上の句が唯一の手がかりで、下の句がオチにつながっている。落語なだけに笑いにあふれた噺だけど、恋するふたりが分たれているというあたりが歌に寄り添っていてよくできた噺だなあと思う。
尊王攘夷を真っ先に叫んだ水戸藩がなにゆえ明治の新政府に人物を送り込めなかったのか。水戸藩は激しい内紛により人材を失っていたからだ・・・という話、幕末の混乱と明治の幕開けの中で水戸藩はどうあったか、主人公はその中にあってどう生き延びたか。歴史小説でありながら歌の存在が光る。王朝風の雅びやかな歌を詠んだ歌塾萩の舎主宰・中島歌子に、生きるか死ぬかの瀬戸際な時代があったとは。人の運命を狂わせてやまない。それが幕末というものだったのだろう。そして彼女にしてみれば、狂わされたからこそ見出した歌の道だったのかもしれない。