母からの電話
2014年 06月 20日
近況をあれこれ。スケジュール調整がうまくいかずいい仕事を逃してしまったことや、4月5月の仕事バブルが6月に入った途端終息してしまったことなどを話す。ちょっと愚痴っぽい口調になっていたのかもしれない。ひとしきり話すと母が「でも、ここまで仕事してこられると自分で思ってた?」と尋ねてきた。「全然想像してなかった。やれるかどうか考えるよりもやれるようにしなきゃいけないって気ばかり強かったから。我ながらよく続けてこられてるなあって思うよ」と答えると、「そうでしょ。よくやってるなあって思うもの、お母さんも」と母。
写真で飯を食っていけるようにしたい、と志したときにはこうして続けていられるのなんて想像できなかったわけで、そのときそのときの足元を確保するので精一杯だった。今だって、ずっと先のことが見えたりイメージできたりしているわけじゃないけれど、いつの間にか、カメラマンでい続けるといういたって(困難だけど)シンプルな願望が、カメラマンでい続けることは当然として、じゃあどういうカメラマンでありたいのかを考えるようになっていた。成長なのか。いや、当然の流れなんだろう。考えることもスライドしていかないと、多分続けてこられなかったと思う。
母曰く、子どもの頃のわたしは褒められたがりだったという。大人どころかすっかりいい年になってまさか、母に正面きって感心されるとは思いもよらなかった。褒められたがり屋だった子どもの頃のわたしがきいたらすごく喜ぶだろうな。
この後母の話は急展開し、「一生ひとりはさみしいと思うのよ」という言葉を再び賜る・・・。「勘違いしないで欲しいんだけど、わたしだって一生ひとりでいいなんて思っちゃいないのよ。(結婚)する気はあるのよ、相手いないだけで」と再びわたしが答える。最初にこの言葉を言われたときはいきなりの直球だった。今度は変化球。ストレートかと思ったら、バットの前で急に球が沈んで気付けばストライク、みたいな。けれども母上、どんな球を投げてきたところで、相手をぽんとみつけられるわけではないのですよ・・・。