「村田エフェンディ滞土録」(梨木香歩/角川文庫)を読む
2014年 08月 25日
梨木香歩さんの「家守綺譚」とその続編「冬虫夏草」を読み直し、番外編的作品「村田エフェンディ滞土録」を読んだ。「家守綺譚」の中で、主人公・綿貫征四郎の友人として名前だけは出てくる土耳古(トルコ)に留学中の村田が主人公。彼が下宿する家は、家主がイギリス人、同居人はギリシャ人、ドイツ人、トルコ人、そして鸚鵡。宗教的だったり民族的だったり単に個人的だったりの個性にあふれ、日々語り合う日々を重ねる。物事に対してのスタンスがそれぞれ違っても、お互いの違いを尊重し了解してひとつ屋根の下暮らしている。
19世紀末期から20世紀にかけての頃の物語で、トルコという国が当時どういう立ち位置だったのか、欧州がどういう動きをしていたのかが登場人物たちのやりとりからうっすらわかってくる。読みながら、国家というのはなんと意固地なんだろうと思えてくる。その国家を構成しているのは国民だけど、国民ひとりひとりが果たして意固地かというとそんなことはない。では何がそう意固地にさせるのか・・・なんてことを、物語の終盤にいくにしたがって考えずにはいられなかった。
「国ってなんなのだろう」・・・帰国した村田の元に、トルコ滞在時代の大家からほかのみんなの消息が手紙で伝えられるのだが、それを読んで彼はそう呟く。トルコに起きた革命によって、「私は人間だ。およそ人間に関わることで私に無縁な事は一つもない…」という言葉を引いていたギリシャ人が命を落とす。その後第一次世界大戦が起き、前線へ赴いたトルコ人と、奇襲攻撃を受けたドイツ人も命を落とす。イギリス人の大家は、ドイツ相手に戦争をしているのは我が祖国だけれど、わたし自身は彼らをとても愛している、では祖国が彼らを殺したのだろうか・・・としたため帰国する。そして鸚鵡だけが残った。その鸚鵡は日本人の貿易会社を通じて村田の元に無事に送り届けられた。その鸚鵡もめっきり老け込んでいた。皆と議論を交わし合った時間はすっかり失われた。その喪失感と寂寥感が行間からたちのぼる。
国としての戦争もあれば、民族、宗教としての戦争もある。どんな形であれ、人は争ってしまうのだなと新聞の国際情勢の誌面を見ながら日々思う。そんな折、取材きっかけで仲良くなった映画監督・石井かほり氏から、国交の問題でお蔵入りになった作品があるのを教えてもらった。
「風を感じて 四川大地震記録映画」
個人レベル、民間レベルでは素敵な交流がそこにある。にも関わらず、この作品は公開できず国同士はなんだか微妙な関係だ。なんて意固地なんだろう国家って・・・で、国家って、いったい誰なの?