さよなら、車谷さん。
2015年 05月 19日
高校ぐらいから意識して文学作品を読むようになった。故人の作品ばかりだったが、大学時代後半あたりから存命の作家の作品をぽつぽつ読むようになり、今では生きている人7割、故人3割といったところか。その生きている作家で強く惹かれていたのが車谷さんだった。
何がどうで惹かれるのか、うまく説明できなかった。好きな人のことをどうして好きなのか事細かに説明できないのと同じで、とにかく好きなのだった。ひとつ言えるとしたら、そばに見当たらないようでいて実はたしかに存在している暗がりというか深淵というか、そういう存在に気付かせてくれるところに惹かれていたのだと思う。
最初はなにやら粛々とした気持ちでページをめくっていた。それが、さまざまな作品を読むうちに、おかしみを感じるようになってきた。ギャグ、というのではない。生きていくということはいくつもの困難に突き当たる道行きなのだろうけれど、その困難の先にほの見える滑稽さとかおかしみとか、なんていうか、泣きながら笑う、諦めながら笑うとでもいうような、そういう感じがひしひしと伝わってくるようになり、心の中で、「長吉さん」と親しげに呼ぶようになった。
タモリと吉永小百合とうちの母親と同い年だった長吉さん。ほか3人が元気な姿を見せているのを思えば、長吉さんの死はあまりにも早い。亡くなり方はとても長吉さんっぽい感じがするけれど、もっと先でもよかったでしょうに。晩婚でいらしたのだし、これから先もっと奥様と二人三脚を繰り広げていただきたかった。
もう長吉さんのような作家には出逢えないような気がする。さみしい。