京都音博へ行く前に、河井寛次郎記念館に行ってきた。
連休効果も手伝ってかバス乗り場は長蛇の列。漫然と待っているのが嫌いなので歩くことにした。きょろきょろしいしいで25分程だろうか。町家がいくつか集うエリアに記念館はあった。開館待ちの女性がふたり。
受付で申請して名前を書くと写真を自由に撮らせてもらえる、と京都在住の友人からきいていたので申し出る。瀬戸本業窯の馬の目皿が出迎えてくれ、居間に入る。そこをしばらく出られなくなった。見どころがあまりにも多いのだ。
だだっ広いわけでもなく調度品も多いのに、ゆったりとした空間に感じられるのはなぜだろう。置かれている家具のトーンが統一されているからか。中庭に面したところに窓が並んでいるせいもあるだろう。ここそのものが吹き抜けにもなっている。圧迫感がまるで感じられないのはそのためか。囲炉裏周りにある椅子、ダイニングテーブル周りにある椅子、すべてに腰掛けて部屋を眺め渡す。落ち着く。気持ちがいい。室内なのに遠くを眺めているような心地。
広角の目線で見た後はマクロの目線で見る。椅子の座面の形、背面の飾り彫り、花瓶敷き、箪笥の飾り模様。階段がそのまま収納にもなっている。囲炉裏の前の床と箱階段の手前に似たような造形があった。受付の方にあれはなんですかと尋ねると、囲炉裏のほうは熱を逃がすためのもので庭に通じているとのこと。箱階段手前のほうはなんと防空壕だという。
昭和12年にこの家が建って、その後戦争が激しくなって、当時町内会長をしていた寛次郎氏、まず防空壕を作ることを命じられたんだそうな。後付けのはずの防空壕だけど、蓋にあたる部分が囲炉裏の前の空気孔と似たデザインになっている。殺伐としているはずの存在が、防空壕とは思えないたたずまいでそこにあった。戦後、荷物置き場等で使われるようなことはなかったという。
館内を行ったり来たりしながら、座っていい椅子には座り触っていいものにはひたすら触る。展示ケースには収集品やデザインで関わったもの、そして前期・中期・後期と分類された陶芸作品がずらり。
中期に民藝の影響が強い。絵付けの具合などとてものびのびしている。根を詰めて積み重ねるというよりも、自分の内に宿る美を一瞬で取り出して視覚化したかのような。はっとさせられる。後期の作品群は中期に見られる形を超えたものが多く、全てにおいて解き放たれたような印象を受けた。
これらがひとりの人物から生まれた作品とは。作るということに貪欲だったのが見て取れる。満足しきってしまったらそこで伸びしろはなくなるんだなあと自戒を込めてつくづく思った(もちろん、自分の撮るものに満足しきってなんていないけれど、たまに自画自賛することもあるゆえに・・・)。
敷地奥ののぼり窯へ。現在は稼働していないはずなのに、そんな気がしない。それはこの記念館全体にも感じられることで、来館者が始終あるからということではなく、生活が営まれている気配がそちこちから感じられるのだ。
さっきまでそこでご本人が仕事をしていたかのような、やあやあとひょっこり登場しそうな。二階の座敷などその最たる場所で、置いてある敷物には体温が残っているような気すら、する。どうしてなんだろう。寛次郎氏が慈しんだ美しいものたちが美しいまま時を重ね続けているからだろうか。ものたち自身が慈しまれた記憶を胸に秘めながら主なき家を守り続けているかのようだった。
あちこちに神様が祀ってあった。受付の方にそのことを尋ねたら、「寛次郎は信心深い人だったんですよ」と。正月飾りを美しいからと外さずに飾ったままにしておいたんだそうで、昔は大原女(のかっこうをした人)がそのお飾りを売りにきた、と。玄関先で家の中に声をかける大原女の姿をまぶたに浮かべてみた。それもまた美しい光景だったろう。
1時間半ほどかけて、行ったり来たりためつすがめつ滞在を楽しんだ。釉薬を入れていた壺の連なりと咲き乱れる彼岸花の群れとの間で石仏が、秋にしては強い日射しを一心に浴びて白く照り返っていた。自然が生み出す陰翳の美しさよ。