ぱちを送る。
2015年 11月 09日
7日朝、ぱちの告別式をおこなってきた。大蔵動物霊園というのが近くにあり、そこにぱちのお弔いを託した。両親も共に送ってくれるというので、早起きして上京するふたりを迎えに上野へ行き、9時ちょっと前に霊園に到着。そこへ一泊二日の出張仕事のときにいつもぱちの世話をお願いしていた麗さんも駆けつけてくれた。彼女の顔を見たら、またも涙があふれた。
2日間預かってもらっていたぱちは、棺の中で永遠の眠りの最中だった。ぱちをくるんで持ち込んだ膝掛けが敷物代わりに敷かれ、霊園のスタッフさんたちが花で飾ってくれていた。ぱちの姿を見る最後の機会になるから、思う存分なでて言葉をかけた。ぱちがよくそこで眠っていた座蒲団を持ち込んだのだが棺に入らず、やはりよく使っていた小さいブランケットは掛けてもらい、そして持参したぱちの好物を木のプレイトに団子状にして並べた。一合枡に蜂蜜水を注いだけど、枡が乾いていてあっという間にしみ出てしまった。
ぱちはほんとのところ一体いくつだったのか、正確なところはわからない。我が家に住み着いて15年だったけど、それ以前には隣りの隣りの家の押し入れに臨月で住み着き子を3匹産み、そのまま置き去りにして出て行ってしまったという過去をもっていた(その家で暮らしていたぱちの息子は9年前にすでに亡くなった)。わたしがぱちと出逢ったのはアパート前の路地で、初めて逢ったときは迷彩柄の首輪をしていた。やたら人なつっこいのをいいことに、たびたびモデルになってもらった。何度か遭遇した後首輪がとれていた。「遊びに来る?」とナンパしたらついてきて、慣れたように我が家に上がり込み、それから15年間無断外泊は一度きり、11年前の大けががきっかけで完全に家猫化した。もろもろ情報を整理すると、我が家に来る前におそらく3年か4年は経ていたと思う。よぼよぼになって亡くなってもおかしくない年齢だったんだろう。毛の色も肉球の色も、最後は逢った当初よりもだいぶ薄くなっていた。
ぱちが亡くなるちょっと前に出逢ったライターさんも常に家に猫がいる生活を送っているんだそうで、わたしが「うちはもう介護状態で、うんこのついた尻を拭いたりしてます」と話したら、「わたしもうんこ拭きたい。そこまで長生きした子がいないから、猫の介護をするくらい長生きさせたいよ」と話していた。そうか、わたしはぱちがそんなになるまで存分に暮らせたのかと思った。それでもやっぱりもっともっと長く一緒にいたかったし、寒くなったら身体を寄せ合って暮らしていきたかった。幾度考えたところで、あのあったかい存在は帰ってこない。
麗さんを送って、両親と部屋に戻った。母はぱちのいたところを尋ねてきた。「夏場はこの玄関のところにいたのね。たしかに涼しそうだものね」と確認していた。珈琲を入れて3人で飲み、昼ご飯を食べに出かけ、そのまま両親は日立に戻っていった。夕方の仕事まで時間があったので、お花を贈ってくれたちか子さんと麗さんにお礼を言いに行った。ちか子さんは3年前に愛犬を亡くした経験から、「武藤さん、今も辛いだろうけど、これからもっと辛くなるから覚悟しておいて」と潤んだ目で話してくれた。これはもう宿命みたいなもんなんだ。たくさんたくさん幸せをもらった。だからその分辛さも半端ない。泣かなくなるまで泣き続けるしかない。
たとえ骨になっても部屋の中に骨壺があるのがこんなにも安心と感じられるとは思いもよらなかった。実体はなくなっても存在感がそこにたしかにあって、多分この先ずっと骨壺に話しかけることになるのだろう。いっとき涙が止まったのだった。でも仕事から戻る帰り道に涙があふれてきてたまらなかった。帰ってもぱちはいない。この半端ない喪失感を身内に宿しながらしばらくは過ごしていくことになるのだろう。
座蒲団でぱちの生前と同じ姿勢で横になっていたらそのまま眠り込んで、明け方目が醒めて布団に潜った。まだ枕の真ん中に自分の頭を置く気になれない。共寝のときはいつも枕を半分こして使った。そして朝を迎えるとわたしの頭のほうが枕からずり落ちて、ぱちが全面支配していびきをかいているのが冬の風物詩みたいなもんだった。もう一度ぱちのあったかいお腹を感じながら眠りたい。合間合間に記憶が揺り戻り、なかなか涙が乾いてくれない。