月命日
2015年 12月 04日
生身のぱちにはもう二度と逢えないことを痛感させられる毎日だ。日を追うごとになんでいないんだろう、なんで触れられないんだろうというやりきれなさばかりが際立って、涙が出ない日はない。きのう父と電話で話して、「どうだ、少しは落ち着いたか」と訊かれた。全然だよ、まだ無理だ、と返すと、「やれることやったんだからもうそろそろいいんじゃないか」と言う。やれることやったからとかそういうことじゃないんだよ、としんみり返した。いついつまでにケリをつけるとか、この日を境にもう絶対泣かない、とか、きっちり線を引くことはとうてい無理な相談で、そういう類いのものでもないのだ、こればっかりは。
つい先日、長くお仕事をいただいている女性編集者が取材を終えての別れ際に、「お逢いしたときに直接言おうと思ってて・・・」と言いながらすでに涙目になっていて、「ぱちちゃんのこと、ほんとうに残念でした」と言い終える頃には号泣していた。彼女は20年前に愛猫を亡くし、いまだに残り毛が出てきたりすると泣いてしまうそうで、当時の悲しみを思い出しながらこちらを慮り冥福を祈ってくれているのがひしひしと伝わってきた。浅草の人通りの多いところにも関わらず、ふたり寄り添っておいおい泣いた。20年たってもなお。悲しみに消費期限はないのだ。ぱちよ、なんという置き土産を残していったんだい。悲しみ袋をいつも内包しながら生きてゆくことになるのか。でもこれはきっとたくさん愛情を注ぎたくさん幸せにしてもらった側が引き受けていかざるをえないものなのだろう。
きのう友人がぱちに線香をあげにと家に寄ってくれた。数年前に父親を亡くしたその人は、夢に出てくるのはまだ先だよ、今はあっちに向かっててくてく歩いている最中だから。遠い場所から順々にめぐって最後にそばにいた人の夢に出てくるよ、と話していて、なんだかそれが妙に説得力があった。じゃぱちはきっと実家の父母の夢に出た後にわたしの夢枕に現れるのかな。猫の歩みじゃ時間かかりそうだけど、飛ぶようにめぐって早くわたしのところに出ておいで。化けて出てきたっていいんだよ。
月命日のお供えには魚を焼いた。お余りはぱちの生前そうしていたようにわたしの朝ご飯になった。蜂蜜入りのお水と、盛岡の吉田さんから届いた早池峰のヨーグルトと、神永さんからいただいたご著書とを供えて、なかなかにぎやかなぱちの場所になった。写真を撮る。もう動いているぱちは撮れないんだなあと、ひと月たってもまだ思う。ぱちの体温、ぱちが放っていた音、ぱちの存在感、まだちっとも遠くならずに部屋の中にこごっている気がしてならないのに、いないんだなあ、ぱちは。