大分県人落語会と落語教育委員会へ
2016年 06月 16日
きのうは大分県人落語会、今日は落語教育委員会へ。大分県人・・・のほうは被災した大分を応援しようという会で、出演者の噺家さんたちはノーギャラ、木戸銭は被災者支援にまわすとのこと。文治師匠がfacebookでしきりに呼びかけをしていたので、この日逢う予定になっていた友人も誘って出かけた。落語教育委員会のほうは喜多八師匠への追悼の気持ちを込めて久しぶりに観に行った。
6月14日大分県人落語会@日本橋公会堂
じゃんけん「転失気」
緑太 「猿後家」
鳳志 「牛ほめ」
栄馬 「茄子娘」
文治 「寿限無」
中入り
朝也 「やかんなめ」
市馬 「七段目」+俵星玄蕃
栄馬師匠の高座を聴くのは初めて。「茄子娘」を聴いて、扇橋師匠がよくこの噺をかけていたっけなあとしみじみする。とても引いた高座なのに、口調やリズムにおかしみがあふれていて、またそれがご本人の風貌や雰囲気にとても添っていて、聴けてよかったとほくほくする。色紋付の冴え冴えとした青緑色がとてもお似合いだった。
文治師匠はよく軽めの噺をかけていらっしゃるけれど、この師匠がやるとどえらい噺な気がしてくる。「寿限無」が壮大な叙事詩に聴こえてくるから面白い。
朝也さんは来春真打ち昇進が決定し、おそらく今乗りまくっている二つ目さんだと思われる。彼の高座を初めて聴いたとき、声のボリュームが大きいにも関わらず聴いているうちに睡魔に襲われるということが度々あったのだが、ここ3年くらいでがらっと高座が変わった気がする。眠くならなくなったし、前のめりで聴くようになった。先々がものすごく楽しみ。
市馬師匠、ふだんそんなに大きな所作をしない印象だけれど、そこは「七段目」、所作が多い。それを拝見して、なんて鷹揚できれいな所作をする方なのだろうと今更気付いた。ずんとした存在感があるのに、上空にとーんと抜けていくようなそれでいて前にもとーんと伸びてゆくような、そんなすがすがしい軽やかさ。

扇遊・歌武蔵・喬太郎各師匠による、人の話(噺)を聴くときは携帯の電源をOFFにしようのコント。
ろべえ 「唖の釣り」
歌武蔵 「五人廻し」
中入り
扇遊 「夢の酒」
喬太郎 「純情日記横浜編」
喜多八師匠が先月17日にお亡くなりになって、今回は扇遊師匠が出演された。わたしが喜多八師匠の高座を最後に拝見したのは5月5日の鈴本演芸場夜席で、「長短」だった。去年金馬師匠の「長短」を拝見して目からウロコの衝撃を受けた。これまで聴いた「長短」はイマイチ面白どころがわからないでいたのだけれど、ようやくたどりつけたような心地だった。喜多八師匠のはやはりほかの「長短」とはまるで違い、金馬師匠のともまた違うのだけれど、とてもしっくりくる「長短」で、取材の折には病気でしんどそうだとお見受けしていたけれど、高座は相変わらずの喜多八節で、ああいいなあと思ったのだった。亡くなってからちょくちょく師匠の高座を思い出す。その日によって思い出す高座は違い、いかにたくさんの喜多八噺が強く印象に残っているかに気付かされ続けている。
芸人さんの追悼は明るい。明るいだけにせつないし喪失感がじわっと迫ってくる。しみじみめそめそするほうがずっとラクチンなんだと思う。「アカルサハ ホロビノ姿デアラウカ」・・・「右大臣実朝」(太宰治)の中の実朝の言葉。何か大きなヒントがこの言葉にはあるとずっと思っているのだけれど、まだ見つからないでいる。喬太郎師匠の「純情日記横浜編」を聴いたら、純度の高さを取り戻したいと強く願う自分に気付いた。師匠方が実にすがすがしく楽しげに高座を勤めていらっしゃるのがありがたかった。
客席で無責任に笑っているのが大好きだ。でも高座もやっぱり撮っていきたい。お客の視点をもちながら高座を撮りたい。最近高座撮影からやや遠のいているのだけれど、長らく続いたなんとなく無気力な心地から脱しつつあるので、気持ちを切り替えてゆかなきゃだ。おそらく、人生は長いようで長くない。ましてや肉体労働、どこまでもつかわからない。さあ、今こそ。