先日、同い年の知り合い(Fさん)が亡くなった。闘病している様子は日々のSNSからは伺えなかったし、彼女と密に付き合っていたわたしの友人Wさんによると、寝耳に水の知らせだったようだ。
Wさんを通じてFさんと知り合ったのはかれこれ7,8年前になるだろうか。料理人であるFさんをその後きもの雑誌で撮影したこともあった。共通の友人知人も多かったし、SNSをまめにやっていらしたから、実際は会っていないけれど会っているような気がしていた。乳癌による多臓器不全が死因で、病院で息を引き取るぎりぎりまでふつうに暮らしていたそうだ。羨ましいほどに、清らかに美しく楽しく住みなしている人だった。
こんなふうにして、誰それが亡くなったということがこれからどんどん増えていくのだろう。自分だっていつそっちの世界に行くかわからない。自分の年齢が上がるということは、付き合いのある人たちの年齢も上がっていくことだから、20代30代のときとは風景が違ってくる。
ときどき、今は亡き人のことをふっと思い返す。2015年の初冬に逝った愛猫ぱちのことは相変わらず頻繁に意識にのぼってくるが、めそめそ泣き続けることはなくなった。涙は出るが、長いこと一緒に暮らしてくれてありがとうという気持ちが上回るようになった。
おととしの暮れに突然逝ってしまった落語大好きKさんのこともよく思い返す。彼が長いこと応援していた今では真打ちになった若手噺家さんの活躍を見るにつけ、「Kさん、頑張っているようですよ、彼は」とふっと心の中で呼びかける。Kさんにはたびたびご飯をご馳走になったし、韓国旅行にも連れて行ってもらったし、議論も交わしたし、生意気言っても許してもらっていたし、写真をたくさん褒めてもらった。御徒町に渋い居酒屋を見つけたから一緒に行きましょうという話をしてあったのだが叶わなかった。
噺家さんの訃報が入ると、取材でお目にかかったときのことを思い返す。先日亡くなられた志ん駒師匠は、2004年の「落語ワンダーランド」でお目にかかった。この本がわたしの噺家さん撮影初めなので、志ん駒師匠か小三治師匠のどちらかが初めて撮影した噺家さんのはず。志ん駒師匠がそのときお召しになっていたジャケットの内側には、師匠である志ん生の本名と志ん駒師匠の本名とが並んで縫い取ってあった。そんな話を志ん駒師匠の弟子である駒次さんにしたら、「そのジャケット見つからないんですよ。事によったら捨てちゃったんじゃないかって話で」とのこと。亡き後にも笑いを残していかれた。
きのうは最近日本舞踊を習い始めた友人がきものの裄を直したいというので、木場の悉皆屋に案内した。向かう道すがら、2年前の春に亡くなったおかみさんのことを思い出す。ちゃきちゃきしていていつも明るくて、言いたいことはずばっと言う。直してもらったきものを着て伺うといつも派手に喜んでくれ、「あらぁー、この柄素敵じゃないぃ!」と持ち込んだきものを楽しそうに見てくれた。きものがとても大好きな人だった。時間の経過とともに、おかみさんの不在をおとうさんと息子さんが少しずつ埋めていっている感じがして、おかみさんが居ないことに違和感を憶えなくはなったのだが、訪れると今でも彼女の声が頭の中を駆け巡る。
いよいよ危ない、という父親のもとへ駆けつける当時付き合っていた彼を東京駅で見送ったことがあった。お父上にお逢いしたことはなかったけれど、その人あっての目の前のこの人と思うと、なんて声をかけたらいいかわからなかった。友人やお世話になっている人の親御さんの葬儀に立ち会って、お逢いしたことのない故人であっても、自然とありがとうございますという気持ちになった。
子どもの頃はわからなかった、弔うという気持ち。齢を重ねることで自然とそういう気持ちが身に付いていた。他人事ではないと思うようになったせいもあるだろう。なんでも自分事ととらえられればもっと優しくなれるのだろうけれど、死という究極の出来事においてでしかまだ作用できていない気がする。まるで未熟なままだが、さらに経験を重ねることでどうにかなっていくものなのだろうか。