また後で、なんて言っていると、あっという間にひとつきなんて過ぎちゃう。気が付けば、ここを放置してひとつき以上たっていた。
このひとつきで、季節ははっきりとたしかに冬から春へと移行した。寒い寒いと縮こまっていた肩が少しずつ開いていき、冬のこわばりが肩甲骨のあたりに残る。そろそろほぐしてもらいに行かなければ硬いままで固定してしまう。
春の訪れとともに、家の中で過ごす時間が活動的になった。見て見ぬふりをしていた、洗濯したら小穴が空きまくってしまった華奢な生地のワンピースを繕おうと思ったのも、夜が冷え込まなくなったからだ。繕い用にと買ってあった黄色の太い糸は手持ちの縫い針の穴に通らなかったので、フランス刺繍の針を買ってきた。いざ取りかかってみるとこれがなかなか進まない。繕い終えた箇所を眺めるとあまりの不細工な仕上がりに苦笑いする。ドライクリーニング表示があるのに、ネットに入れて洗えば大丈夫だよねと洗ったのがたたった。緩くふんわりと織られた生地は、ふわっとした穴を大小あちこちにこさえた。
数日前の夜、届いたメールの内容がこっちの心を荒ませる一歩手前の内容で、気を落ち着かせようと針を動かした。送り主とは去年の秋くらいから仕事も絡んでやりとりをしているのだが、それが密になるにしたがってどうにも波長が合わないと感じ始めた。余計なメールがやたら来るので、そういうのはいらないと伝えるようにしたらだいぶ収まったが、こういうべたべたしいタイプはこれまで周りにいなかったので対応を持て余し、思わず友人との飲みの席で愚痴をこぼすことが何度かあった。人付き合いの距離感がその人とわたしとでは違うのだろう。いただけない気分のときに、不器用ながら針を動かしていると気が落ち着く。料理もそうで、もやもやしているときにひたすら野菜を刻み煮込んでいると不思議と落ち着く。ひとり住まいのわたしとって、家しごとは家族のためではなく自分を調える役割を果たす。
冬の間、この狭い住まいの中のとりわけ動線上にしか気を払ってこなかったので、あちこちにほこりがかぶっているのが春の光になって如実に目立つようになった。冬の光の中では気にも留めなかったのに、春の光には何か特殊な透過力や反射力のようなものがあるのだろうか・・・いや、光のせいじゃない、単に自分が怠けていただけ。寒い寒いとこたつに縮こまって見ないようにしていた。自分がいちばんわかっている。あたたかくなってようやくきれいにするか、という気持ちになった。溜め込んでいたものを解き放つ、春は放出の季節。