去年の秋、
島田潤一郎さんの取材を旧知のライターから打診され思わず小躍りしたのは、彼の著作「あしたから出版社」(晶文社)を読んで心を揺さぶられるものがあったからで、仕事柄こういうありがたい機会が時々ある。
島田さんがひとりで
夏葉社という出版社を始めるきっかけや始めてからの日々が綴られたこの本は、書物への自分の姿勢を改めてしゃんとさせてくれる機会にもなった。読書する立場、そして時折本の制作過程に撮影者として関わる立場、その両方を思い巡らし、考えること見ることが全く足りないていない底が浅いという気づきがもたらされた。ぼんやりしていると、中身が全く育たないままにただ年だけを重ねてしまうのだ。読書が消化するだけのことになっていないか。本に関する撮影をすることがギャラをもらうためだけのことになっていないか。本を愛していると思ってきたけれど、言葉尻だけのことに陥っていないか。様々に突きつけられるものがあった。
吉祥寺の島田さんの仕事場には夏葉社の本が積み重ねられていた。倉庫も兼ねているのだという。その傍らに、まだ折り目のついていない表紙や帯の束も積み重ねてある。なぜかと思ったら、個別に数冊対応する場合には自ら表紙をつけ帯を巻くのだという。領収書も手書きにしています、手でやる作業を残しておきたい、労働とはそういうものであると思うから、というようなことをお話された。そこは自分にも通じるところがあり、深く共感した。
手を足を身体を動かすことは思考することにもつながっていく。考えてみたところで思考を深めていけるほどの何かが自分にはないとわかっているのだが、それでも何かしらを考えることをしていたい、そこは放棄したくない。考えなくても全てが快適でつっかえもなく日々が過ぎていくということに何の魅力も感じない。身体を使っていたい。手足を動かしていたい。面倒くさいという発想を自分の中から無くしたい。そう思っているから、島田さんの「労働」についてのお話に大きく何度もうなずいた。
その後、夏葉社の本を何冊か読み、今も数冊が控えている。他社の本よりも血が通っているように感じるのはおそらく、島田さんご本人にお目にかかったことからくる錯覚にしても、なんだろうこの感じは。古本屋でめぐりあう、本が貴重な存在だった時代の本のたたずまいを思わせる。気品がある、とでも言おうか。