名前は知っている。周りにその作家の作品のファンもいた。けれどなんとなく敬遠してきた。読んでも好きになれないような気がしてその人の書く本を手に取ることすらしなかった。食わず嫌いというやつだ。
ところが。
アニメ「平家物語」が放映された途端、原作になっているその作家が現代語訳した「平家物語」をむしょうに読んでみたくなった。そういう人が多かったのだろう。リアル書店でもネット書店でも売り切れで、版元のウェブサイトで増刷中であることが知れた。待ち望んだ入荷予定日、すぐにネット書店で購入手続きをし、じりじりしながら発送通知が来るのを待った。こんなふうに本の訪れを待つのはいつ以来だろう。届いた途端読みかけの本をいったん横に置き、
古川日出男現代語訳の「平家物語」に飛びついた。「平家物語」という私にとってのパワーワードがあっさりと敬遠を解いた。
初めまして、古川日出男様。
あなたの「平家」に出逢う以前に私は
講談社学術文庫の「平家」で原文と現代語訳を読みました。それと比較するとあなたの訳した「平家物語」は、この物語を語る琵琶法師の息継ぎまでもが聞こえてきそうな、今目の前で語られているかのような臨場感にあふれていました。私は室町時代の京都のどこかの辻で、琵琶法師が語る平家一族の物語を、めいいっぱい想像を働かせながら息をつめるようにして聞いている民衆のひとりになっておりました。
「平家物語」というのは平家一門の栄枯盛衰を描いた軍記物で叙事詩で・・・という、かつて授業で使った日本文学便覧に書いてあることをそのまんま受け取り、古文の授業で「祇園精舎」と「扇の的」「敦盛最期」を習い(思えばなぜこの3つなのだろう)、一部分を知ったに過ぎないのにその物語を好きな古典のカテゴリーに加えてきた。
去年春から「平家」のzoom講座を受け、原文や現代語訳を読み進めていくうちに、なにゆえこの物語が描かれたのかが気になり出した。そして冬のある朝、仕事場へと歩いている途中で突然、「鎮魂」という言葉がぽんと浮かんだ。そうか、「平家」は鎮魂の文学なのだ。語り継ぐことで魂を鎮める。それは、祀ることで菅原道真の荒ぶる魂を鎮めようとしたのと同じ類だ、と。気付いてみたらなぜ気付かなかったのかが不思議でならないくらい、それは至極当然であると思えた。次には、叙事詩ではなくむしろ抒情詩なのではと考えるようになった。「平家物語」を叙事詩と呼ぶにはあまりにも顔が見える。時代の流れという縦軸にその都度絡んでくる人たちの物語が、その時代を生きて生きて死んでいった人たちの物語が、数多く描かれている。軍記物で叙事詩で、とまとめられる物語ではないだろうと思い至った。
「平家」の現代語訳を皮切りに古川日出男作品を立て続けに読んでいる。
「平家物語 犬王の巻」、
「ゼロエフ」と読んで、古川氏が「平家」に取り組み現代語訳したということが後続の作品に強く影響しているのを感じた。そんな折、なんの気なしに聴いていたラジオ番組のその日のゲストが古川氏で、初めて肉声を聴いた。読み終えたばかりの「ゼロエフ」の語り口とその声音が一致した。ほんの数ヶ月前までは食わず嫌いで敬遠していた作家が一気になだれ込んできた。
思えば「平家物語」を通してさまざまな表現に出逢ってきた。能や歌舞伎、文楽、演劇、ドラマに映画、絵本に小説、アニメ。そこにこのたび作家・古川日出男氏が加わった。