あちこちでサルスベリの花を見かける。濃いピンク、淡いピンク、たまに白。夏空とそれら花の色との相性は抜群で、夏だからとそれらしい場所に出かけるわけでもない私にとっては、身近で拝め得る夏のシーンとして完璧なんじゃないかとすら思う。
住宅街を歩いていれば必ずのように見かける手近なその花の盛りがいつなのか、そのくしゃくしゃっとした花の形状からはどうもうかがい知れない。いつの間にかあっちでもこっちでも咲いていて、いつの間にやら見かけなくなる。花をつけていない時分には、猿も滑るというそのツルツルの幹に気づきもしない。それでも花全般に対する情緒の足りない私にしてみれば、ほかの花よりも十分気にかけている部類に入る。
サルスベリが気に留まるきっかけになったのは作家・梨木香歩さんの小説
「家守綺譚」で、どうしてこの作品を手に取ったんだったか今ではすっかり忘れたけれど、最初の一編のタイトルが「サルスベリ」だった。
ある嵐の晩、庭のサルスベリが激しく硝子戸を打ち付ける。「平常はどう風が吹いても花房の先が硝子に触れるほど」なのが、その晩は「サルスベリの花々は硝子に体当たり」を繰り返し、「その音が、次第に幻聴のように聞こえてくる。・・・イレテオクレヨウ・・・」。家人・綿貫征四郎はあまりの風雨の激しさに雨戸を立てる気にもなれず座敷の布団をひっかぶって凌いでいる。そこに、「キイキイという音」が「床の間の掛け軸の方から聞こえ」てきたかと思うと、(掛け軸の)向こうからボートが一艘近づいて来る。漕ぎ手は琵琶湖で亡くなったはずの友人・高堂で、その彼が告げるのだ、「サルスベリのやつが、おまえに懸想をしている」と。それを聞いた綿貫は高堂の助言に従い、これまでのようにサルスベリを撫でさするのはやめにして、根方に腰掛けて本を読んでやることにした。
・・・と、大体そのようなあらましの一編で、床の間の掛け軸が彼岸との接点になっていることや亡くなったはずの友人と何のためらいもなく話し始めることなど気になる点はほかにもあるのだが、私はそういうことをすっ飛ばしてただただ「サルスベリのやつが、おまえに懸想をしている」という一文にすっかり参ってしまい、この「サルスベリ」から始まる「家守綺譚」に心を持っていかれた。そしてその後夏を迎えるたびに実風景の中のサルスベリが幾度もこの物語に私をいざなう。
春先から月に一度、北鎌倉のとある日本家屋に撮影に出掛けている。その家に保管されている大量の資料の中から編集者が進行中の書籍案件に使いたい資料を引っ張り出し、私は2階の自然光がよく入る部屋でそれらを撮る。資料のほかにインテリアも撮るし、家に伝わる着物も撮るし季節ごとの庭も撮る。つい10日ほど前の撮影では、咲きっぷりのピークは過ぎたけれどまだまだ花をつけている大きなサルスベリの木を撮影した。幹は2階に届く高さで横に広く枝を伸ばしている。見上げないと花そのものは見えないが、咲いていることは足元の飛び石に落ちた花弁でわかる。
この北鎌倉の家でサルスベリの存在に気づいた途端、「家守綺譚」の綿貫征四郎が住まう家を連想した。綿貫の家はここより少し広いくらいだろうか、庭に琵琶湖の疏水を引き込んだ池があるというし。いや、ここ北鎌倉の家も今は涸れているけど池の跡があるなあ・・・輪郭が定かではなかった物語上の家が突如具体化し、自分がそこに立っているような錯覚に陥る。
次回この家を訪れる時はそうだ、床の間の掛け軸を眺めてみよう。そこからボートを漕ぐ音がして男がぬっと現れる想像が容易にできるかもしれない。