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1 2017年 03月 21日
木内昇の作品は「茗荷谷の猫」を皮切りに何冊か読んでいる。舞台は江戸とか明治あたりのふつうの人の生活を題材にしているものが多い。強烈なインパクトはないし感動的というんでもないけれど、淡々と生活を描いていて、登場人物たちに親しみを憶える。今回読んだ「よこまち余話」は読もうと思ったきっかけを失念してしまったけれど、読んでみたらこれまで読んだ木内さんの作品いくつかの中でいちばん胸に響くものがあった。
とある路地がある。そこには長屋があって、ふつうの人たちがひしめき合うように暮らしている。これが小説の中の現在だ。その現在と並行して別次元が存在している。どうやらこの長屋の住民の中にはその別次元から紛れ込んでいる者があるようだ。読み進めるうちに、今を生きている人と、過去から生き直しのために今にやってきた人と、事情がわかってくるのだが、理屈は一切ない。ただ、そういうこともあるのだと思わせるくらいのふわっとした感じで別次元が顔をのぞかせる。それはちっとも違和感がなく、実は太古の昔よりこの別次元というのはあたりまえのものとして存在しており、作品の舞台になっている明治の頃には、別次元を感じられるくらいの感性がまだ人々に残っていたのだけれど、現代の我々はその感性を失ってしまったに過ぎないのでは・・・なんて考えに思い至る。 ![]() 能の話や「花伝書」が随所に登場する。ずっと以前能のことを少しでもわかりたくて読んだ本の中に、能は魂の救済の芸能であると書かれてあった。橋懸かりを渡って彼岸からこちらにやってきて、想い残しや後悔などをひとしきり語った後に舞うことで昇華させ、彼岸に戻って行く・・・とざっくりととらえているのだが、そういう能の世界観そのものが物語の根底にあることに読みながら気付いた。主人公のひとり・浩三は、自分の住む世界と別次元との境目にあって、そこを行き来する人とそれとは知らずに交歓する。彼の目線を通すせいなのか、行き来する人たちがこの世のものではない、と断定できず、むしろ断定することはこの作品において全く意味がない。このあわいを漂う感じがなんとも心地いい。自分が今生きている世界と並行する形で別次元が存在して、もしかしたらある瞬間そっちの次元がわたしの前に顔をのぞかせるかもしれない、そしたら真っ先に誰に逢いたいだろう、などと考える。そんなふうにして読み進めていたら、ほろほろとした気持ちでいっぱいになった。 一生懸命に今を生きていたって、きっと後悔や心残りは生じるのだ。生きて在るというのはそういうものなんだよ、と言われているような気がした。木内昇の作品はいつもそんなふうに優しく読む側の心を包む。
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by naomu-cyo
| 2017-03-21 03:13
| 読書
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