「む一ちょ写真日記」:読書
2023-08-31T02:45:01+09:00
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フォトグラファーの武藤奈緒美です。日々感じたことや思ったことを、写真とともにつれづれなるままに。
Excite Blog
サルスベリ
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2023-08-30T21:48:00+09:00
2023-08-31T02:45:01+09:00
2023-08-30T21:48:39+09:00
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読書
住宅街を歩いていれば必ずのように見かける手近なその花の盛りがいつなのか、そのくしゃくしゃっとした花の形状からはどうもうかがい知れない。いつの間にかあっちでもこっちでも咲いていて、いつの間にやら見かけなくなる。花をつけていない時分には、猿も滑るというそのツルツルの幹に気づきもしない。それでも花全般に対する情緒の足りない私にしてみれば、ほかの花よりも十分気にかけている部類に入る。
サルスベリが気に留まるきっかけになったのは作家・梨木香歩さんの小説「家守綺譚」で、どうしてこの作品を手に取ったんだったか今ではすっかり忘れたけれど、最初の一編のタイトルが「サルスベリ」だった。
ある嵐の晩、庭のサルスベリが激しく硝子戸を打ち付ける。「平常はどう風が吹いても花房の先が硝子に触れるほど」なのが、その晩は「サルスベリの花々は硝子に体当たり」を繰り返し、「その音が、次第に幻聴のように聞こえてくる。・・・イレテオクレヨウ・・・」。家人・綿貫征四郎はあまりの風雨の激しさに雨戸を立てる気にもなれず座敷の布団をひっかぶって凌いでいる。そこに、「キイキイという音」が「床の間の掛け軸の方から聞こえ」てきたかと思うと、(掛け軸の)向こうからボートが一艘近づいて来る。漕ぎ手は琵琶湖で亡くなったはずの友人・高堂で、その彼が告げるのだ、「サルスベリのやつが、おまえに懸想をしている」と。それを聞いた綿貫は高堂の助言に従い、これまでのようにサルスベリを撫でさするのはやめにして、根方に腰掛けて本を読んでやることにした。
・・・と、大体そのようなあらましの一編で、床の間の掛け軸が彼岸との接点になっていることや亡くなったはずの友人と何のためらいもなく話し始めることなど気になる点はほかにもあるのだが、私はそういうことをすっ飛ばしてただただ「サルスベリのやつが、おまえに懸想をしている」という一文にすっかり参ってしまい、この「サルスベリ」から始まる「家守綺譚」に心を持っていかれた。そしてその後夏を迎えるたびに実風景の中のサルスベリが幾度もこの物語に私をいざなう。
春先から月に一度、北鎌倉のとある日本家屋に撮影に出掛けている。その家に保管されている大量の資料の中から編集者が進行中の書籍案件に使いたい資料を引っ張り出し、私は2階の自然光がよく入る部屋でそれらを撮る。資料のほかにインテリアも撮るし、家に伝わる着物も撮るし季節ごとの庭も撮る。つい10日ほど前の撮影では、咲きっぷりのピークは過ぎたけれどまだまだ花をつけている大きなサルスベリの木を撮影した。幹は2階に届く高さで横に広く枝を伸ばしている。見上げないと花そのものは見えないが、咲いていることは足元の飛び石に落ちた花弁でわかる。
この北鎌倉の家でサルスベリの存在に気づいた途端、「家守綺譚」の綿貫征四郎が住まう家を連想した。綿貫の家はここより少し広いくらいだろうか、庭に琵琶湖の疏水を引き込んだ池があるというし。いや、ここ北鎌倉の家も今は涸れているけど池の跡があるなあ・・・輪郭が定かではなかった物語上の家が突如具体化し、自分がそこに立っているような錯覚に陥る。
次回この家を訪れる時はそうだ、床の間の掛け軸を眺めてみよう。そこからボートを漕ぐ音がして男がぬっと現れる想像が容易にできるかもしれない。
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食わず嫌い返上
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2022-04-05T09:33:00+09:00
2022-04-07T13:17:38+09:00
2022-04-05T09:30:55+09:00
naomu-cyo
読書
ところが。アニメ「平家物語」が放映された途端、原作になっているその作家が現代語訳した「平家物語」をむしょうに読んでみたくなった。そういう人が多かったのだろう。リアル書店でもネット書店でも売り切れで、版元のウェブサイトで増刷中であることが知れた。待ち望んだ入荷予定日、すぐにネット書店で購入手続きをし、じりじりしながら発送通知が来るのを待った。こんなふうに本の訪れを待つのはいつ以来だろう。届いた途端読みかけの本をいったん横に置き、古川日出男現代語訳の「平家物語」に飛びついた。「平家物語」という私にとってのパワーワードがあっさりと敬遠を解いた。
初めまして、古川日出男様。
あなたの「平家」に出逢う以前に私は講談社学術文庫の「平家」で原文と現代語訳を読みました。それと比較するとあなたの訳した「平家物語」は、この物語を語る琵琶法師の息継ぎまでもが聞こえてきそうな、今目の前で語られているかのような臨場感にあふれていました。私は室町時代の京都のどこかの辻で、琵琶法師が語る平家一族の物語を、めいいっぱい想像を働かせながら息をつめるようにして聞いている民衆のひとりになっておりました。
「平家物語」というのは平家一門の栄枯盛衰を描いた軍記物で叙事詩で・・・という、かつて授業で使った日本文学便覧に書いてあることをそのまんま受け取り、古文の授業で「祇園精舎」と「扇の的」「敦盛最期」を習い(思えばなぜこの3つなのだろう)、一部分を知ったに過ぎないのにその物語を好きな古典のカテゴリーに加えてきた。
去年春から「平家」のzoom講座を受け、原文や現代語訳を読み進めていくうちに、なにゆえこの物語が描かれたのかが気になり出した。そして冬のある朝、仕事場へと歩いている途中で突然、「鎮魂」という言葉がぽんと浮かんだ。そうか、「平家」は鎮魂の文学なのだ。語り継ぐことで魂を鎮める。それは、祀ることで菅原道真の荒ぶる魂を鎮めようとしたのと同じ類だ、と。気付いてみたらなぜ気付かなかったのかが不思議でならないくらい、それは至極当然であると思えた。次には、叙事詩ではなくむしろ抒情詩なのではと考えるようになった。「平家物語」を叙事詩と呼ぶにはあまりにも顔が見える。時代の流れという縦軸にその都度絡んでくる人たちの物語が、その時代を生きて生きて死んでいった人たちの物語が、数多く描かれている。軍記物で叙事詩で、とまとめられる物語ではないだろうと思い至った。
「平家」の現代語訳を皮切りに古川日出男作品を立て続けに読んでいる。「平家物語 犬王の巻」、「ゼロエフ」と読んで、古川氏が「平家」に取り組み現代語訳したということが後続の作品に強く影響しているのを感じた。そんな折、なんの気なしに聴いていたラジオ番組のその日のゲストが古川氏で、初めて肉声を聴いた。読み終えたばかりの「ゼロエフ」の語り口とその声音が一致した。ほんの数ヶ月前までは食わず嫌いで敬遠していた作家が一気になだれ込んできた。
思えば「平家物語」を通してさまざまな表現に出逢ってきた。能や歌舞伎、文楽、演劇、ドラマに映画、絵本に小説、アニメ。そこにこのたび作家・古川日出男氏が加わった。
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「平家物語」講座
http://muucyo.exblog.jp/241103793/
2021-07-25T01:49:00+09:00
2022-04-15T21:41:19+09:00
2021-07-25T01:49:19+09:00
naomu-cyo
読書
十三巻に及ぶこの物語を月1の講義で1年間。講義時間は3時間、課題講評の時間が1時間強。けっこうなボリュームだ。新たに知ることがあまりにも多く、いや、なんとはなしに好きだというわりにあまりにも知らないことが多かったのだ、へえーへえーと面白がっているうちにあっという間に時間が過ぎる。
物語の流れのみならず、人物像や物語の構造にも切り込んでもらえるおかげか、「平家物語」が次第に立体的に感じられるようになってきた。これは今回のテキスト「覚一本平家物語」が琵琶法師による語り本であることにも起因していると思われる。語りで聞いて理解できるということは、聴く側がおのおのイメージを浮かべやすい言葉遣いや構成になっているのだろうから。平安時代末期の風景なんて知る由もないのに、頭の中にビジュアルを浮かばせるのだからすごいものだ。
受講生には毎度課題が出される。これが私にはひどく難しい。他の受講生はおそらく演劇関係が多い様子で、大半の方が課題をそれぞれに解釈して一本の物語を創作してくる。思いつきと勢いだけで書いた初回の課題は、講評時間に触れられもしないほどの代物で、他の方の課題を読んで自分の次元の低さを思い知った。
しかしめげている場合ではないのだ。私はこの講座を受けることで物事を深める癖をつけたいのだ。これまで自分のことばかりあーだこーだ考えて堂々巡りを繰り返してきたが、自分ではない対象を客観的に見て深めることを身につけたいのだ。
8月提出の課題は「有王」。鬼界ヶ島に流刑になった俊寛の死を見届け菩提を弔う役目として登場する人物だ。ここのところずっと、有王のことばかり考えている。「有王」を写真で表現するには。どうアプローチしたら有王を描けるか。ふと、こんなとき北島マヤならどう有王を理解し演じるのかななんて漫画の主人公を思い浮かべ、二次元も三次元もまぜこぜ、愚にもつかぬことに頭をめぐらせている。時間があるっていいことだな。なんだか少し豊かな気分だ。
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読みたい本をすべて読むには一生は足りないのかもしれない
http://muucyo.exblog.jp/238703337/
2018-08-12T14:47:00+09:00
2018-08-12T14:56:18+09:00
2018-08-12T14:47:25+09:00
naomu-cyo
読書
この書店には「欲しい本」を登録しておける機能があり、ちょっと前までは400件まで登録可だったのが、最近になってその容量が増えた。400件じゃ足りないよ!という利用者が多かったのかもしれない。わたしの「欲しい本」はただいま451冊を登録済みで、日曜日の朝刊に掲載される書評を読むと一冊二冊追加されるのが常だ。
また、持ち歩き本を読み切ってしまい、駅中の本屋などで数冊まとめて買ってしまうこともままある。行けば何かしらの本が見つかるし見つけてもしまう。台所の戸棚の中の未読本コーナーを眺めては「きりがないなあ」と毎度思う。
登録したり買っておいたりしても、少し時間がすぎるとその本を読みたい欲が落ち着いてしまうことがある。そんなときは無理して読まずに放っておく。時間を置いてから取り寄せたりふと手に取ってみたりしたら、結果的にそのときがまさに読むのに絶好のタイミングだったなんてこともしばしばあって、本を読むのが習慣づくとそれを選ぶ指先や勘働きも冴えてくるのかなと感じることさえある。
これから出逢うであろう本も含めたらおそらく、一生かかっても足りないんじゃなかろうか。だからといって速読を体得する気はさらさらなく、量ではなく出逢うべき本にその都度出逢っていければいい。だから読み始めてどこをどう考えてみてもしっくりこない本に遭遇してしまったときは、その本に敬意を払いつつも潔くリリースする。ウマが合わないものと付き合っている時間がもったいないから。
金曜日から5日間、今月の渋谷らくごが始まった。今回は全日程撮影可能ですと連絡したら、先方から3日間お願いしますと返事がきた。ぽっかり空いた今日は、前から誘われていた屋形船遊びに出かけることに。根が貧乏性なので、ふだんは忙しくなくても忙しいかのように事務所へ行きなんかしらの作業をするのだが、思えば今日は日曜日だし、世間もお盆休みモードで急ぐ仕事もないので、出かけるまで家にこもって腹ばい読書と決め込んだ。こんな時間、久しぶりじゃない?と嬉しくなりながら梯久美子さんの随筆集「猫を抱いた父」(求龍堂)を読み始めたら、昼過ぎに読み終えてしまった。インタビューで出逢った著名な方々との思い出を振り返った随筆の中に、児玉清さんとの思い出があった。
「現代人は時間にケチである。自分の時間を他人に与えることを惜しむ。人に会っていても、頭の隅で次にすることを考えていたりして、いつも少しだけ、気が散っている。(中略)なぜかは分からないけれど、一緒にいると気持ちがいい人がいる。何を話したというわけでもないのに、会った後に充実感が残る。それはその人が、目の前にいる相手に、そのときの自分のすべてを惜しみなく差し出しているからだと思う」(本書、「児玉清さんのこと」より引用)
はっとした。ああ、ケチっているつもりはなかったが、気が散っていることがままあるなあ、自分・・・。児玉さんは多忙な身であろうにもかかわらず、「『あなたのための時間はいくらでもありますよ』という雰囲気」を醸し出している方だったという。
梯さんの文章は、対談相手との思い出という個人的なことを綴りながらも、それを個人的なところでとどめずに普遍化してこちら側に提示してくれる。そういう書き手はほかにもたくさんいるとは思うが、なんでか彼女の書くものにとても惹かれる。ノンフィクション畑の方ゆえか、脳内ではなく足で文章を書いている感じがし、生みの苦しみと悦びとが伝わってくるせいなのか。毎度ずんとくるものがある。にもかかわらず、読みやすい。わたしの場合は写真を撮るのが仕事なわけだけど、梯さんのようにさまざまな人にお逢いしてお話をうかがい撮影する機会をもっともっと増やしたいなという気持ちがはっきりと増してゆく。多分わたしは彼女がしていることを写真を撮るという形でしたいのだと思う。しっかりと向き合って、そのときの持ちうる自分の時間と力を惜しみなく差し出して。流してしまうのではなく、心と記憶に刻むようにして。
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「懸想する」
http://muucyo.exblog.jp/238643724/
2018-07-08T02:57:00+09:00
2018-07-08T02:57:20+09:00
2018-07-08T02:57:20+09:00
naomu-cyo
読書
しかし40代も半ばになんなんとするわたしは、「懸想する」という言葉を手に入れた。初めて聴いたのは時代劇だったか・・・・それで現代語ではないと思っていたのだが、「家守綺譚」(梨木香歩)やこの「恋の王朝絵巻 伊勢物語」の中で出てくるところを見ると、若干古風ではあるが今でもなんとか通用する言葉であり、「恋する」と口にするのが恥ずかしい性格あるいは年頃の人には「懸想する」がしっくるするんじゃないかと思う。いい言葉ではないか!
今読んでいる「恋の王朝絵巻・・・」は、「伊勢物語」を段ごとに取り上げ、解釈と解説を加えている作品だ。著者である岡野先生は母校の名誉教授なのでお名前は存じ上げていたが、残念なことにすでに授業はなかったと記憶している。折口信夫の薫陶を受けた方なので、解説の中に師・折口の考えも随所に紹介されている。単なる現代語訳ではなく、当時の習俗や文化、考え方、はたまた政治情勢にまで触れており、そうすることで当時の延長に今があることを感じさせ、在原業平をはじめとする登場人物たちに親しみすら湧いてくる。和歌の意味も通りいっぺんではなく、詠んだ当人の当時置かれていた状況にまで言及しており、歌の生まれる背景が伝わってくる。「伊勢物語」はこんなふうに読めるのか・・・知ることで何倍も面白くなった。
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「ののはな通信」(三浦しをん/角川書店)を読む
http://muucyo.exblog.jp/238622354/
2018-06-26T11:53:00+09:00
2018-06-27T01:04:01+09:00
2018-06-26T11:53:24+09:00
naomu-cyo
読書
宇都宮での撮影帰り、在来線への乗り換えの大宮駅構内で本屋を見つけた。店員に尋ねるとクオカードが使えるという。ぱーっと4000円分本を買おう、時間もあることだし、とさほど広くない書店の棚を眺めていく。新刊と文芸と文庫、ノンフィクション的な棚と。ネット書店のお気に入りに登録している文庫を発見、よしこれは買いだ。ほかに・・・と思うも、読みたい本をなかなか見つけられない。ぐるぐると何巡りもしているうちに、文芸の棚の本の入れ替えが始まった。台に乗って作業をする店員のすぐ横で入れ替えられていく本を見張る。あ!これ、こないだ登録した本。あ!新刊出たんだ・・・長居したおかげで欲しい本に遭遇することができた。
そのうちの一冊、「新刊出たんだ!」と選んだ三浦しをん「ののはな通信」(角川書店)を土曜夜に読み始めた。
手紙(あとにはメール)のやりとりだけで構成された全三章で、第一章は私立のお嬢様学校に通う女子高生時代、第二章は大学時代、第三章は40代となっており、章と章の間はふたりが没交渉だった月日にあたる。手紙で構成されているからなのか、そのときそのときのライブ感が横溢していて読むのを止められなくなり、彼女たちの二十数年を一晩で読み切ってしまった。徹夜で本を読める体力がまだあったとは・・・!
高校時代に交わした友情と恋情の経験や記憶が体幹となって、その後のそれぞれの人生を支えている・・・ということが、ふたりのやりとりから強烈に伝わってきた。お互いを「魂の半身」とも表現されていたが、それはいったいどういうものなのか、どういう感覚なのか・・・これはおそらくそれを得た者でないとわからない境地なのだろう。忘れられない、忘れようのない、深い感情。ずっと自分の中で灯り続ける光のような。
ミッション系の学校に通った高校時代(第一章)の手紙の中で「のの」は、
「神なんていない。神がこの世のあらゆる生き物を、いまある形で創ったなんて、バカみたいなおとぎ話。生殖のためにオスとメスがいるんじゃないわ。一人(あるいは一匹)じゃさみしくて、自分以外のだれかと触れあったりまじわったりしたいと願うから、気づいたら地球に生き物があふれただけ」
と「はな」への手紙の中で綴った。「のの」の言う通り、神さまはいないのかもしれない。けれど、ふたりがそれぞれ胸の内に大事にとってあるかけがえのない心の軌跡、記憶、それこそがまるで信仰のようだ、とわたしは感じた。その後の人生を気持ちのうえで支え、照らす光。その記憶があることで、大丈夫わたしは生きていけると思える感覚。
以前、長崎出身の写真の師匠が「隠れキリシタンっていうのは、キリスト教禁止令が出ているから隠れて信仰していたわけじゃん。でも、禁令が解除になって隠れなくて大丈夫になっても隠れるようにして信仰を続けたわけ。これはさ、いつの間にか彼らには隠れることも含めて教義に、信仰になっていたってことだよな」というような話をしてくれたのを、ふと思い出す。
細かいところを拾い上げればきりがないくらい、滋味深い作品だった。第三章における「のの」の現在の暮らしなどは共感するところこのうえないほどだ(彼女は独身フリーライターで猫と暮らしている)。が、しかし。本の帯にもある「震えるほどの恋の記憶」。その後の人生に大きく作用し、置かれている境遇が変わってもずっとその記憶を基点に打ち解けられる・・・そんな記憶は残念ながらわたしにはない。自分や他者をどんなことがあっても心から信頼するに足る「基づくもの」を醸成してこなかったなあ・・・と思わず遠い目になりつつ、明るんできた空をカーテン越しに感じながら、台所の換気扇の下で煙草に火をつける。
「一人でも食べて寝て生活はできるけれど、本当の意味で生きるのはむずかしい。自分以外のだれかのために生きてこそ、私たちは『生きた』という実感を得られるのかもしれない。だれかというのは、ひとに限らず、動物でも植物でもいい。物質でもいいかもしれない。それを通して。社会とつながっている、社会のなかにたしかに自分の居場所がある、と感じられるものであれば。」
猫と暮らす「のの」が「はな」にあてたメッセージ。わたしも似たり寄ったりのことをよく考える。目の前のことに振り回されながらもうじき45になろうとしている。ただ齢を重ねていくだけの生であっていいのか。その「ただ齢を重ねる」ことすら覚束ないのであるけれども・・・。
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境界が気になる
http://muucyo.exblog.jp/238615109/
2018-06-22T13:38:00+09:00
2018-06-22T13:38:01+09:00
2018-06-22T13:38:01+09:00
naomu-cyo
読書
今回は梨木香歩さんの「水辺にて」(ちくま文庫)の後に「ぐるりのこと」(新潮文庫)と、立て続けに梨木さんの本を読んだ後に、未読本棚から中沢新一さんの「アースダイバー 東京の聖地」(講談社)を選んだ。無意識なはずなのに読み終えて思うのは、梨木さんの作品の残像を宿した指が棚にある「アースダイバー」を求めたんじゃなかろうかと。梨木さんの書く「境界」、中沢さんの書く「境界」。頭の隅でずっと気になっていた言葉「境界」について双方が取り上げているうえに、そこにはどこか相通ずる思想が流れている気がしたのだ。
わたしもずっと「境界」が気になっている。
ここのところ、隣りの部屋のリノベーションで大工さんが頻繁に出入りしている。音の聴こえてくるエリアが徐々に玄関のほうに移っているので、もうじき終わるのだな、終わったらどんな部屋に生まれ変わったのか見せてもらおう、くらいに思っているところだ。我が家は大家さん宅から棟続きの二階建て木造アパートの大家さんち寄りにある一階の部屋で、築年数は50年。今どきアパートのペラペラに薄い壁とは違う漆喰壁だが、隣家の音が聴こえないわけではく、暮らしの音がほんのりきこえる程度だ。それを全く意に介せずここに20数年暮らしている。ところが世の中では気密性の高い住まいが重宝されており、いかに音を遮蔽するかが重要で、家族で住んでいるとそれも致し方ないことなのかもしれないなとは思うけれど、一方で聴こえない怖さを感じてもいる。
以前、我が家に友人数名を集めていただきものの牛肉で鍋をつついたことがある。初夏の頃だったので狭い部屋に熱気がこもり、庭に面した側を網戸にしてわいわいと飲み食いしていたのだが、そこへ木の燃える匂いがかすかに流れ込んできた。何かおかしいと思うそばから消防車のサイレンがきこえてきて友人たちと様子を見に行くと、我が家から歩いて数分のところで火事が発生しているのを知った。そこへ火元の裏手にある比較的新しい一戸建ての住民が出てきて、「何かあったんですか?」とわたしたちに尋ねてきてぎょっとした。こんな騒ぎになっているのに、今の今まで気付かなかったという。気密性が高いにも程があるのでは・・・と思ったのだった。
わたしの身近にある抽象的な境界について。
噺家さんを撮る機会が多い。芸人さん同士の雰囲気と、対わたし(カメラマン)に対する雰囲気とでは違っていて、それが極端な方というのも中にはいらっしゃる。当然のことだ、同じ釜の飯の仲間と部外者相手とではどうあったって接し方が違うのは。境界を意識しながら(節度を保ちながら、ともいう)、相手の雰囲気を踏まえつつ接するのだが、時にその境界が弱まったり消えたりするのを感じる瞬間がある。そのせつな、ああ認知していただけたんだな受け入れていただけたんだなと緊張がほどけちょっと安堵する。
2月から何度も足を運ぶようになった渋谷らくごの楽屋で、こないだそう感じることがあった。少し前に稲荷町の駅のホームで某師匠をお見かけした。「渋谷らくごでお世話になっています、カメラマンの武藤です」と声をかけ、降りる駅までおしゃべりをした。降りる際に「すみません、おしゃべりに付き合わせてしまって」とひとことご挨拶して先に降りたのだが、先日また渋谷らくごの楽屋に入って「よろしくお願いします」と声をかけた直後に、「おう、むとちゃん!いい男に撮ってくれよ」とその師匠からいきなり声をかけられた。びっくりして「ハイ!」ととにかく元気に返事をするしかできなかったのだが、名前もおそらく憶えていただいてなかったのがいきなり「むとちゃん」に昇格(?)していて、緊張しいしいおしゃべりした時間が活きたのかなと思い、境めが緩んだのを感じた。
どうも自分の身の回りの出来事を例にすると、あまりに身の回りの範疇から出ていなさすぎて、梨木さんや中沢さんが提示されているような思想の域にまでは全く届いていないのだが、ニュースになるような出来事だってきっとこうした身の回りに端を発しているのだろうから、自分次元における境界のことから普遍的なニュアンスを見いだすことはできると思っている。今はそれを言語化して取り出すことがまるでできていないが、境界についての考えを自身の中で深めていくことは続けていきたい。
「ぐるりのこと」の中で、「開かれている」という言葉が、旅先で行き会った人ふたりがとある風景を表した言葉として紹介されている。そのエピソードを読んで、「開かれている」ものをちゃんと知覚でき、自分の内側にそれをめぐらせる余裕くらいはもっていたい、風通しのいい人間でありたい、と思った。いつも思っている止まりなのだが。
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真夏の読書
http://muucyo.exblog.jp/237691016/
2017-08-29T11:14:00+09:00
2017-08-29T11:34:47+09:00
2017-08-29T11:14:45+09:00
naomu-cyo
読書
後年、米原万里さんの「嘘つきアーニャの真っ赤な真実」(角川文庫)を読み、ユーゴ解体後誕生したセルビア共和国の首都ベオグラードに行ってみたくなった。「ベオグラード」という響きが脳内に刷り込まれ、現状がどうとか文化がどうとか皆目わかっていないのにも関わらず、ただ行ってみたいと漠然と思い続けて今にいたる。
さらに後年、毎日新聞の書評で「ベオグラード日誌」(山崎佳代子/書肆山田)が紹介されていた。「ベオグラード」に反応してすかさず取り寄せたものの、いざとなると触手が動かず、未読本棚に寝かせたまま数年がたっていた。それをこの夏ようやく読み出せたのは、「今なら読める気がする」と直感したからだ。
その直感のきっかけは、「清冽 詩人茨木のり子の肖像」(後藤正治/中公文庫)。「自分の感受性くらい/自分で守れ/ばかものよ」と詠んだ彼女の存在は知っていたし、有名な詩のいくつかは知っていたが、この評伝を読むことで茨木のり子というその人そのものが詩人の枠を超えてぐぐっと迫ってくるような気がした。素晴らしい評伝だった。これを読み終え未読本棚から次の本を選ぶときに「今なら」と手に取ったのが「ベオグラード日誌」で、直感だからその詳細は自分でもよくわからないのだが、今だという気がして読み出したら、著者である山崎さんも詩人であることを知った。詩人が詩人を連れてきた。
「ベオグラード日誌」には死別がたびたび描かれる。内戦による死、病死、突然死、自死。本書に収められた日誌には12年の月日が流れてはいるが、ひとりの詩人の身辺にこんなにもたくさんの死が訪れたのかと驚くほどに、死があふれている。その反動なのか、生き物や光の描写がひとしおまばゆく感じられ、温度までもがしみじみと伝わってくる。茨木のり子の詩を読んだからこそ、今このタイミングで「ベオグラード日誌」を読もうと思い、感じ、読み切れたのではないかと思う。
「清冽 詩人茨木のり子の肖像」の中で、彼女のエッセイに登場する「寂寥」という言葉がたびたび用いられているのだが、「ベオグラード日誌」にもこの「寂寥」という言葉がしっくりする。もの寂しさ、もの哀しさ、もの侘しさ・・・寂しい、哀しい、侘しい、ではなくて。その意味するところはこれから歳を重ねるにつれて言葉での理解ではなく肉体と心で以て自分自身味わっていくにちがいない。寂寥という言葉の意を体得したとき、わたしの中からも詩が生まれるだろうか。
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特別寄稿「土葬・火葬・風葬」を読んで。
http://muucyo.exblog.jp/237308237/
2017-07-25T02:07:00+09:00
2017-07-25T02:08:41+09:00
2017-07-25T02:07:31+09:00
naomu-cyo
読書
この会報誌の最後に掲載されていた加地伸行氏の特別寄稿文「土葬・火葬・風葬」が目からウロコの内容であった。以下、加地氏の文章を部分的に引用し要約する。
寒暖の差が激しい中東では、過ごしやすいのは夜で、となると地下の涼しいところに遺体を置けば死者は涼しかろう・・・という感覚から「土葬」を行うようになった。
インドの場合は中東よりも暑い。そのため遺体の腐敗が早く悪臭も漂う。それは肉親といえども嫌悪を覚えるに相違なく、よって遺体を遠ざけ消滅する手段として「火葬」し遺骨は川へ流すようになった。
黄河流域は寒い地域で腐敗が遅く、死者は眠るがごとくなため別れがたく、ゆえに地上の一定の場所に遺体を置き白骨化するまで(「風葬」)を生と死の中間とし、その後白骨を土中に埋葬した。
もとより、埋葬の仕方はその土地の環境に負うところが大だったとは・・・知らなんだ!宗教的な理由ありきで埋葬も違ってくると漠然と思い込んでいたが、むしろ逆だったのか。その土地土地の埋葬を背景にして宗教が生まれてきたのだ、という。埋葬の管轄が民俗学から宗教学へと移行したということか。
自分の死のイメージはまだ全然わかない。けれど死そのものに常に畏怖を覚える。棺の中の遺体を見つめるとか触れるとかがとにかく怖い。どうしてこうも・・・というほどに。生命活動を終えて物体と化してしまった姿を信じられないという気持ちが強いから怖いのだろうか。
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風流と解せば〜「家守綺譚」再び〜
http://muucyo.exblog.jp/237236957/
2017-07-21T01:39:00+09:00
2017-07-22T02:07:40+09:00
2017-07-20T07:31:56+09:00
naomu-cyo
読書
実家にはクーラー自体はあるのだが、年がら年中カバーがかけられたままで活動しているのをついぞ見たことがない。太平洋に面した街で海風が街の熱気を一掃するのか、朝夕とても涼しい。いまどきの密閉度の高い住宅ではないせいもあるのだろう。クーラーを必需品と思わない実家暮らしを19年間送った。上京してからの20数年間はクーラー設備そのものがなかった。扇風機で過ごしていると言うと信じられない!と驚かれるが、今の住まいも古いつくりで密閉度は低く、庭には土があり、扇風機が呼び込む外の風と室内の照度を落とすこととで、じゅうぶん快適である。住まいには朝と夜しかいないせいでもあるが。
こないだ、軒下のたたきの隅に何かしらの物体がおわすなあと思い目をこらすと、はたして蝦蟇であった。以前もつがいの蝦蟇を見かけたことがあるので、この庭を根城にしているのだろう。泰然自若としていた。それからいろいろな野良猫がやってくる。今朝も視線を感じて外を見ると、お向かいの家の外飼いされている猫が、縁台からこっちをじぃっと見ていた。きのうなど、網戸を開けた弾みでなにやら跳ねるものがあり、見ればバッタであった。軒下にぶら下げている洗濯物干し用針金ハンガーは、巣作り時分のカラスが失敬していく。暖かくなると室内を蜘蛛がうろつき、風呂場のタイルにダンゴムシが現れる。東京の端っこで、なかなか風流な・・・いやいや、野趣に富んだ暮らしが叶っていることを面白く感じている。
梨木香歩さんの「家守綺譚」(新潮社)、何度目かの再読をした。読むたびに、この小説の主人公・綿貫征四郎の生き物世界とのボーダレスぶりに憧れを抱く。犬との交歓、河童や小鬼との交歓、サルスベリとの交歓、亡き友との交歓・・・特殊能力ではない、ちょっと昔の人がふつうに備えていた感覚というふうに描かれている。慌ただしくて生活のめりはりをなくしかけているとき移動中にこの本をぱらりとめくる。かつての日本人が自然と備えていたのかもしれないこうした感覚をなんとか自分に引き寄せられないか・・・と、しばし慌ただしさを遠くに押しやりながら思う。そんなこともあって、便利でラクチン何も考えなくて済むようになりそうなモノは極力遠ざける。カメラマンなんていう商売をしていてそのような姿勢だと、半ばついていけてないヒトくくりにされてしまうのが問題ではあるのだが・・・ついていくことで失うこともあるのだろうと思う。どっちにしても善し悪しありそうだから、困る。
まあ結局、自分というものは、生きいいようにしか動いていかないようにできている・・・と開き直ったところで、明日も早いし寝ることにしよう。扇風機のタイマーを1時間にセットして。
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「蒐集物語」(柳宗悦/中公文庫)を読んで日本民藝館へ。
http://muucyo.exblog.jp/237115307/
2017-06-23T10:09:00+09:00
2017-06-24T07:24:49+09:00
2017-06-23T10:09:08+09:00
naomu-cyo
読書
ものを見誤るのは「空手で物に接しないから」だと言い切る。「知恵」や「評判」、「銘」、「金高」でものを計るから、おかしなものをつかまえてしまう、と。知識ではなく直感で見よ、と柳さんはおっしゃる。「先ず見ることが肝心である。見る前に知る働きを加えると、見る働きは曇ってしまう。そうすると美しさはなかなかその姿を現してくれぬ」・・・これは本書で繰り返し述べているところである。
きものを着るようになって9年。その9年の間に「失敗した!」と思うものもたくさんつかまえてきたし、直感でいいものに辿り着いたこともたくさんある。失敗した場合は「これも勉強代・・・」と反省し、再び同じことがないよう気をつける。最近失敗がないのは、9年の間にたくさんの染織品を見て触ってを繰り返してきたからだと思われる。先日、玉石混淆のきものの某ウェブショップで、しみ等があるからと2,000円の激安価格で売られていたその帯をたちどころに購入したのは、ウェブの小さな写真でもぱっと見ただけでその型染めの素晴らしさが際立っていたからだ。これも型染めが好きで日々この類いを見続けてきた成果だと思われる。おおらかで伸び伸びとした線で描かれたその帯は、手元に届いて即悉皆屋さんに直しに出した。これはまがうことなきいい仕事だと嬉しくなった。
本書では、「那覇の古着市」の章で琉球の織物との出逢いが綴られている。柳さんたちが美しいと称賛するものを島の人たちは「流行おくれ」だと言い、どうも「自国のものを卑下してか、内地から商人が売りに来るいかものの方を、ずっと新時代のものだと信じ込む」傾向があったらしい。内地では「西洋を真似る輩はとても多いのであるから、非難はできぬ」と柳さん。この「自国を卑下」するおかげで失われた各地の手仕事がこれまでいくつもあっただろうと思うと、もったいなくてしようがない。卑下に加えて、手間ひまかかる手仕事をしていても決して暮らし向きが良くなるわけではないからと手放す人も多かったろう。自分の手でものが産み出せるということそのものが、カメラという機械を通してじゃないと仕事にならないわたしからすれば途轍もなく尊いことだと思われるのだが、手仕事があたりまえの環境で暮らしていれば、そうは考えないのかもしれない。米一粒、キレ一枚たりとも産み出せない側の人間のほうがエラいなんて、そんなのは本来間違った道理だろう。
柳さんは蒐集そのものを楽しむのではなく、蒐集したものを民藝館に展示し大勢の人に見てもらうことを望んだ。美しさの共有と伝達をめざしてくれたおかげで、後世を生きるわたしたちもそれらを見ることが叶う。ここで示される美しさはある方面(民藝とよばれる分野)における美でしかないかもしれない。多岐にわたるであろう美しさを丸ごとカバーしているものではないかもしれないが、少なくとも美しさとはなんぞやと考える行為に繋がる。いや、蒐集の姿勢そのものを深く理解すれば、ここに集められたものを通して美しさ全体の真髄に触れることは可能だろう。何度でも訪れて、目を養いたい。
本書を読み終えた後に駒場公園で撮影する機会があり、終わったその足で民藝館に立ち寄った。「江戸期の民藝」展が開催されており、本書で紹介されているものがいくつか展示されていた。みつめながら、「これがあの・・・」とエピソードを思い返していた。この接続している感触が、たまらない。
(写真は金沢で見かけた火鉢のもとを乾燥している図)
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「夫・車谷長吉」(高橋順子/文藝春秋)を読む。
http://muucyo.exblog.jp/237103814/
2017-06-19T03:31:00+09:00
2017-06-19T03:31:47+09:00
2017-06-18T09:51:23+09:00
naomu-cyo
読書
思えばずっと、小説の主人公と作者である車谷さんとを重ねて読んでいた。肖像権問題で訴えられたり私小説家と言われていたりしたから、書かれていることの大半がほんとのことなのだろうと思い込んでいた。ところが随筆の車谷さんはおもろい顔を随所にのぞかせる。あ、小説は小説なんだなと気付いたのは「世界一周恐怖航海記」や「四国八十八ヶ所感情巡礼」(ともに文藝春秋)を読んでのちだ。読者を煙に巻いてふふんと笑っている車谷さんの顔が見えるようだった。しかし生活をともにするというのは、そのおもろい顔だけではなく、負の顔も容赦なく受け止めていかねば成り立たないことが伝わってくる。「夫・車谷長吉」には日々の喜怒哀楽がめいいっぱい描かれていた。恨み言もたびたび述べられているが、それは不意に逝ってしまった伴侶の魂にさみしさをぶつけているように見える。
夫の言動がきっかけで絶縁されたり筆禍問題に巻き込まれたりと、ふつうなら見切ってしまっても誰からも責められないような状況でも高橋さんは「嫁はん」であり続け、夫である車谷さんの魂の行く末を見届けた。愛する、という表現は使われていないけれど、この清濁あわせ呑み徹底的に添う姿勢こそがまさに愛するということなんだろうか。楽しい思い出を綴った箇所からも、そうじゃないことを綴った箇所からも、行間から「ひとりはさみしいよ」と車谷さんに呼びかけているような気配がたちのぼるのを感じる。半身を失ってきざすさみしさは、もともとひとりでいて味わうさみしさよりも、何倍もさみしいんじゃなかろうか。それでも出逢って一緒に生きることをめざすようにヒトはできているのだろうと思う。
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自分にとってのベストな読書
http://muucyo.exblog.jp/23817732/
2017-04-17T01:19:00+09:00
2017-04-26T02:13:35+09:00
2017-04-16T11:56:40+09:00
naomu-cyo
読書
この撮影依頼をいただいたとき、ちょうど「狂うひと 『死の棘』の妻・島尾ミホ」(梯久美子/新潮社)を読んでいる最中で、「海辺の生と死」(島尾ミホ/中公文庫)はその中にたびたび引用されている小説。「死の棘」(島尾敏雄/新潮文庫)を読んだのは学生時代で、その後島尾作品は戦争ものを数編読んだ程度だったのが、たまたまほかの本の中で紹介されていた「ヤポネシア考ー島尾敏雄対談集」(葦書房)」を読んだらこれがひじょうに好奇心を刺激される作品で、民俗学の視点で島尾文学を読むのも面白そうだなと思ったのだった。また、去年9月には八月踊りの取材で初めて奄美大島を訪れる機会をいただいた。小説の舞台になっている加計呂麻島へは足を運べなかったが、わたしの中に島尾敏雄・ミホ夫妻や加計呂麻島に関する興味の細胞が緩やかにぷつぷつと育っているという状況で取材を迎えた。
テレビを滅多に見ない生活なので、満島ひかりさんの出演作品は映画「悪人」くらいしか観ていないと思う。しまいには主人公に殺されるいけすかない女子大生を演じているのだが、これがあまりに見事ないけすかなさぶりで、強烈な印象が残った。どんな役にもなりかわれる力量ある女優さんだと感じていたので、俄然「海辺の生と死」への期待が高まる。愛しい特攻隊長がそのときを迎えたら自分も死を選ぼうという決意を胸に終戦前夜を迎える、激しい情熱を宿した女性。公開が待ち遠しい。
撮影の折には、去年八月踊りの取材で奄美を訪れたことをお伝えして、やりとりの糸口にした。短時間ではあったけれど、わたし自身が見たい絵が撮れたように思う。白い壁の前に立っていただき、窓に掛かっているカーテンを手にして動いていただいた。強烈な存在感と安定感のある方だった。表情がくるくる変化するのがまた魅力的な方でもあった。
たまたまなんだろうけれど、自分がオンタイムで関心を寄せていた対象が、それに繋がるものを呼び寄せたみたいな今回の案件だった。こんなふうに、一冊の本が次に読む本を見いだし、またそれを読むと次が決まり・・・という具合に、どんどん紐付けされていく読書は自分にとってはとても幸せな読書と言える。「狂うひと」を読み終え、「海辺の生と死」を読み終え、今は「狂うひと」の中で引用されていた「妣の国への旅 私の履歴書」(谷川健一・日本経済新聞出版社)を読んでいる。島尾ミホが奄美出身者として描いているのに対し、民俗学者である谷川氏は訪れる側の目線で奄美をとらえる。まだ読みかけだけれど、とても面白い。この本が次はどんな本を招くだろう。活字にいざなわれて、読書旅は続く。
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「火の国の城」(池波正太郎/文春文庫)を読む
http://muucyo.exblog.jp/23756127/
2017-04-05T02:19:00+09:00
2017-04-05T02:19:35+09:00
2017-03-30T01:43:55+09:00
naomu-cyo
読書
池波史観による加藤清正公は、時世を読むのに長け、胆力があり、義理に厚く、とても人間くさい男であったようだ。作品に登場する清正に侍る者たちの行動で加藤清正という人物が伝わってくる。誰もかれも、しのびの者までも彼に心酔し、命を捧げる勢いで仕える。清正公、きっと生来の人たらしだったにちがいない。秀吉譲りか。家康は、清正の旧恩忘れず豊臣家存続のために労を惜しまない姿勢にというよりも、この人たらしなところを恐れたのではなかろうか。清正公がひとたび動けば、自分になびいていると思しき武将の心までも一気に掌握してしまいそうな魅力を家康自身も感じたのでは。ようやく天下を手中にする順番がまわってきて、敵になる可能性のある武将たちを次から次へと毒殺してしまう家康。直接対決の場があった時代には毒殺という手段はおこなわれていない印象だが、徳川家が天下を取り戦が絶えて以降、この手段が頻繁に出てくる気がする。
しのびの者がやたら出てくるこの作品。歴史小説を読むようになるまでは、アニメ「ハットリくん」情報で、甲賀忍者と伊賀忍者しか知らなかった。表の歴史には登場しない彼らの影働き。読んでいると、人間業とは到底思えない能力が随所に出てきてそれも面白い。常人のもっている視野とは全く次元の違う視野をもっていたことがわかるのだが、それを文章で見せる池波節ってやっぱり素晴らしいなあと思う。清正公が築いた熊本城のさまざまな仕掛けを読むにあたって、ああ、この本片手に熊本城を探索してみたい、と胸踊るものがあった。震災で大きく破損したかの城の修復には20年、いや30年かかるとも言われている。どうか1日も早く、と願わずにはいられない。
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「よこまち余話」(木内昇/中央公論新社)を読む
http://muucyo.exblog.jp/23735058/
2017-03-21T03:13:00+09:00
2017-03-22T03:16:10+09:00
2017-03-21T03:13:51+09:00
naomu-cyo
読書
とある路地がある。そこには長屋があって、ふつうの人たちがひしめき合うように暮らしている。これが小説の中の現在だ。その現在と並行して別次元が存在している。どうやらこの長屋の住民の中にはその別次元から紛れ込んでいる者があるようだ。読み進めるうちに、今を生きている人と、過去から生き直しのために今にやってきた人と、事情がわかってくるのだが、理屈は一切ない。ただ、そういうこともあるのだと思わせるくらいのふわっとした感じで別次元が顔をのぞかせる。それはちっとも違和感がなく、実は太古の昔よりこの別次元というのはあたりまえのものとして存在しており、作品の舞台になっている明治の頃には、別次元を感じられるくらいの感性がまだ人々に残っていたのだけれど、現代の我々はその感性を失ってしまったに過ぎないのでは・・・なんて考えに思い至る。
こんな考えは梨木香歩さんの「家守綺譚」を読んだときにも抱いた。ほんの150年程前の人たちは時空間とか自然界の道理とか、そういうものへの感度が現代人に比べておそろしく高かったのではないか、と思うのだ。そうとらえると、「よこまち余話」に描かれる、生き直しのために別次元からやってきている老婆の存在も、すんなりと受け入れられる。まあ、受け入れるとか受け入れないとか考える前に、この作品の中に登場する人たちの別次元との関わり方があまりに自然なので、ふつうに物語を楽しめるのだが。
能の話や「花伝書」が随所に登場する。ずっと以前能のことを少しでもわかりたくて読んだ本の中に、能は魂の救済の芸能であると書かれてあった。橋懸かりを渡って彼岸からこちらにやってきて、想い残しや後悔などをひとしきり語った後に舞うことで昇華させ、彼岸に戻って行く・・・とざっくりととらえているのだが、そういう能の世界観そのものが物語の根底にあることに読みながら気付いた。主人公のひとり・浩三は、自分の住む世界と別次元との境目にあって、そこを行き来する人とそれとは知らずに交歓する。彼の目線を通すせいなのか、行き来する人たちがこの世のものではない、と断定できず、むしろ断定することはこの作品において全く意味がない。このあわいを漂う感じがなんとも心地いい。自分が今生きている世界と並行する形で別次元が存在して、もしかしたらある瞬間そっちの次元がわたしの前に顔をのぞかせるかもしれない、そしたら真っ先に誰に逢いたいだろう、などと考える。そんなふうにして読み進めていたら、ほろほろとした気持ちでいっぱいになった。
一生懸命に今を生きていたって、きっと後悔や心残りは生じるのだ。生きて在るというのはそういうものなんだよ、と言われているような気がした。木内昇の作品はいつもそんなふうに優しく読む側の心を包む。
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