フォトグラファーの武藤奈緒美です。日々感じたことや思ったことを、写真とともにつれづれなるままに。


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鳥知らず

 鳥知らずのわたしのことだから今ひとつ自信がないのだが、あれはウグイスだったんじゃないかと思う。

 ご近所さんの玄関そばの植木の中に一瞬その姿を見た。しかし、植木の緑に紛れ判然としないまま間もなく、鳥は視界から飛び去った。

 人間ですら頻繁にお目にかかるカラスやスズメ、ハトならともかく、滅多にまみえることのない鳥は繁殖のパートナーとどのようにして出逢うのだろうかと、こうしたことがあるたびにいつも不思議に思う。こちら(人間)が知らないだけで、鳥にも同胞が集う碁会所のような場所があるのだろうか。圧倒的に少数だとしたらめぐり逢うのだって難儀だろう。戦時中は疎開先にもなっていたとはいえ今の世田谷は住宅街だ。ウグイスが住まいそうな野山は身近ではない。

 庭の縁台に地域猫用のお食事処を用意している。猫用のドライフードを狙って一時はカラスがやってきて、今はムクドリがやってくる。それをムクドリだと知ったのは、インターネットで「鳥 嘴 オレンジ」で検索をかけて出てきた画像を確認したからで、つい最近まで縁台にやってきて時々糞を落としていく声の大きなその鳥の名前を知らなかった。ムクドリといったらメジャーな鳥の部類だろうに。おそらく身近に感じていなかったから知ろうともしなかったのが、わたしの生活圏にちょくちょく現れるようになって初めて「彼奴は何者ぞ」と気になり出した。地域猫2匹に加えムクドリカップルが加わり、小さな縁台は思わず生き物の密度を増している。

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 商店街をツバメが飛来する季節になった。もう少ししたら店々の軒先に巣が見られるようになるだろう。そして糞害防止のビニールが吊り下げられる。このビニールも含めて風物詩。やがて巣が壊れるんじゃないかと思うくらいに成長した雛の姿が見られるようになり、いつの間にか巣立ってもぬけの殻になっている。そして夏が来る。

 コロナ禍で今年は春無し年になってしまった。近所の梅の香は憶えているのに、桜の記憶がおぼろだ。毎日が休みのようなものだから、大型連休も曖昧に過ぎた。袷の着物を楽しみきらないうちに単衣に衣替えした。それをまとうのではなく指先で実感するにとどまっているとは。

# by naomu-cyo | 2020-05-21 12:03 | フォトダイアリー | Comments(0)

なんだか忙しい。

 新型コロナウィルス蔓延により仕事がほぼ停止している状況にもかかわらず、なんとはなしに忙しい。

 仕事をしていないという状況に身体があっという間に慣れてしまった。こんなに働いていないのはスタジオを辞めて丸々一ヶ月何もしなかったとき以来だ。それから約20年間必死に仕事をしてきたけれど、たかがひと月で自粛生活という新しいリズムが身体にしみ込み始めている。いともあっさりと易きに流れるものなのだなあ・・・と自分の新たな側面を発見したような心地だ。怠け者なんじゃないか、と薄々気付いてはいたけれどここにきてそれは確信に変わった。図星すぎてちょっと笑ってしまう。

 なぜに忙しいか。afterコロナを見越しての準備のためではもちろんない。

 家に長く居ると、狭い中でもいろいろやることが見つかる。それらはふつうに仕事をしていたらやらなくてもいいことばかりだ。4月半ばにくるみボタンキットを買った途端、着物や洋服の余り布でひたすらくるみボタンを作ることに没頭、「くるみボタン制作期」が始まった。4月下旬、今度は友人や着物仲間に向けた「くるみボタン送り付け期」に移行した。余り布を眺めていると、ここ十数年に及ぶ着物散財の歴史が浮かび上がり、その布を招き寄せた当時のことが思い出される。あ、この布の来歴をエッセイにできるな、と気付く(ゆくゆく着手しよう)。数年前に購入してあった静岡の紙屋の染め紙を発見。そうそう、何かに使いたいなと買ってあったんだ、と取り出してブックカバーを作る。折るだけだからものの10分もあれば終わってしまうのだが。去年の写真展で余ったDMで封筒を作り始めたり、たくさんあるポストカードの在庫を適宜トリミングして栞を作ったり・・・武士の内職の如しである。一円にもならぬが。

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 一方、生活の中のシーンを頻繁に撮るようになった。以前はよく撮っていたものだが、ここ数年仕事の撮影でそこそこ満たされていたものか、日々の写真をさほど撮らなくなっていた。同じ場所に暮らして23年、自分の暮らしの中に目新しいものなどそうないと思っていたけれど、そんなことはない、けっこう新鮮なのだ。きのうなど、ストレッチしているときのアングルで見えた庭がなかなかに素敵で、転がしてあったカメラを引き寄せてストレッチの体勢のまま撮った。夕方の光の中の春の庭はなかなかに映画的だった。

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 手元を動かしたり本を読んだりしてstay homeしていられたのはほんの一週間ほどで、やっぱり鼻から息をするモノが撮りたくなってくる。そうか、不特定多数に接触しないよう歩いて撮りに行けばいいんだ、と思いつく。相手に負担をかけず家の前あるいは道路で、social distanceを確保して、撮る。家族写真を撮りたいなと思ったら西荻窪に住んでいるとある一家が思い浮かんだので、早速連絡をし快諾してもらった。1時間半かけて家にたどり着き、マスクをしたままと外したところと両方の家族写真を撮り、帰りにタケノコの水煮をいただいた。友人にも協力してもらい、次々と歩いて行けるところをラインナップする。面白い。西荻窪まで行けたんだから、ここも行けるよねとか考えながら住所録をめくる。快諾してくれたある人は「ああ、何着よう。イベントっぽいの久しぶり!」と返事をくれた。そう、それ、嬉しいリアクション!わたしもそうなんだもの。徒歩圏内、social distanceをキープして外で、マスク有り無し。これらの縛りを課しての撮影。この状況が終焉を迎えたら仕事場でコロナ慰労会を兼ねた写真展をしようか。そんな想像をしながら思わず、ウォーキングシューズを購入してしまった、収入ないのに。わはは、だ。

 afterコロナの世界はどうなるのか・・・未来予想図を描くことにかけては全くの素人である。結局、自分は今どう在るか、しか決められない。それでいいのだろう。ただ、この期間に過去の写真の整理(とウェブのリニューアルと・・・)と、未来にこんなことをしたいなという希望は描いておきたいな、と・・・わたしは易きに流れがちだから・・・。

# by naomu-cyo | 2020-05-03 08:18 | フォトダイアリー | Comments(0)

afterコロナに向けて

 撮影の現場が減るとおのずと締め切りの数も減り、そんなわけで時間が余る新型コロナウィルス蔓延渦中のこの頃、自宅籠城の日数が増えている。それはこのウィルスにいちばん有効な対策であるには違いない。

 このいきなり出現した時間を、過去の写真の整理、先々の営業のためのファイル作り、ほったらかしのウェブサイトの更新等々にあてればいいことは重々承知だが、なかなかそっち方面に触手が伸びてゆかない。これまで、過去でもなく未来でもなく「今」ばかりに気持ちを置いてきた。それは自分にとって「今」と向き合っているのがいちばん楽チンだからにほかならない。そして現状、「今」をとても持て余している。

 先日、時々お世話になっている編集者さんと仕事のメールをやり取りした際に、時間ができたのであれこれ企画を考えていますとさりげなく伝えたところ、5月に別部署に異動になるけれどそれまでだったら企画受け付けられますよ、と返事をもらっていた。今朝、もう20日なのか・・・と日付を認識した瞬間にそのことを思い出した。大型連休のことを考えると今週中に提出しなければ間に合わないだろう。今週は・・・半ば以降に撮影が2つ入っている。ならば今日まとめようと思い立ち、午後から企画を練った。

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 もともと考えていた企画は、コロナが落ち着かないとまず実現不可能で、でもこれが彼女の関わる旅絡みの媒体でいちばん叶えたい内容。これは外さない。そして新たに考えた企画はコロナが下火にならなかった場合を想定した内容。コロナ下にあって旅をイメージするには何ができるかを考えた。無理くりひねり出したと言っていい。それが2案。夕方遅くに3案をメールに添付して送った。本日の仕事、これにておしまい。

 通るかどうかはわからない。そもそも企画出しを意識するようになったのがほんの去年のことだから、企画書としての体を成していないかもしれないし不足だらけかもしれない。それでも出していかねばならない。afterコロナの先にはフリーランスの諸先輩方が口々に言う「50の壁」が立ちはだかっている。これに阻まれることなく仕事をし続けていくためには、待っているだけではあかんのだ。焦って、あがいて、学んで、自覚して、自分はこんなことがやってみたいんです、撮ってみたいんですと訴えて、それでもその先の扉が開くかは未知数だ。考えるだに怖いことだが、だからこそやれることはやっていかねばなるまい。そして過去もやっぱり見つめないといけないだろう。

 コロナによる不全状態がどれくらい続くかわからない。希望を自分の中で維持できるようこの期間を実りあるものにしたい。まだ間に合うよ。


# by naomu-cyo | 2020-04-21 01:29 | お仕事 | Comments(0)

しごとのありがたみ

 前回の投稿からひと月余り、コロナ禍が我が身にも顕著に襲いかかってきている。

 3月後半以降、取材の中止と延期の嵐、月変わって4月は実に寒々しいスケジュールになっている。元々の予定を修正液で消して・・・という作業がぐんと減った。動きが止まっているからもう修正のしようがない。

 一方、外出自粛や休業要請が出ても、なくならない案件がある。メディアに顔を出すことが仕事であり宣伝になる方々の取材は規模を最小限にして決行された。

 先週、いとうせいこう氏との共著「自由というサプリ 続・ラブという薬」(リトルモア)を上梓された精神科医・星野概念氏の取材があった。去年1月、仕事仲間・小野民さんがインタビュー執筆を担当した記事で前書「ラブという薬」を知り、心穏やかに暮らすための一助となるような本だぞとありがたく感じていたので、この取材依頼が某新聞社の記者・Sさんからもたらされたとき、嬉しくて思わず声が上ずってしまった。状況が状況だから余計に。
 
 概念先生はいわゆる「医者」という職業から思い浮かべるビジュアルとはいい意味で程遠く(素敵なメガネ男子!)、この日は白衣ではなく私服だったことも手伝ってか気さくな雰囲気で、薄いカーテン越しに日射しが差し込む先生の周りは不思議とクリーム色がかって見えて、世間のピリピリムードとは別世界の趣きがあった。途中落語が好きだという流れからSさんが「武藤さんは東京かわら版などで落語家さんの写真をよく撮っているんですよ」と紹介してくれたのがきっかけでわたしまで話に参加し出し、先生の雰囲気、Sさんのスマートな話運び、落語自体がもつコミュニケーション能力のおかげですっかり打ち解けてしまった。わたしはわたしなりに最近の状況に心が強張っていたのだと思う。いつまででも話を聴いていたかった。

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 きのうは落語家・春風亭昇太師匠の取材があった。カード会員誌のお城特集の取材で、以前師匠の独演会に行った際にサイン入りのご著書「城あるきのススメ」(小学館)を購入し、並々ではない師匠の中世城郭愛に触れていたので、直にそのお話を聴くのが楽しみだった。

 コロナ禍で叫ばれるようになったソーシャルディスタンスを確保してのマスクを着けたままのインタビューはやはり独特で、どことなく堅い雰囲気でスタートしたものの、師匠の話はあっという間に熱を放ち始め、中世城郭を讃える言葉が積み重なるうちにこちらもすっかりその気になり、諏訪原城や一乗谷に行ってみたい気満々になっていた。話すことを生業にしている方のしゃべりの渦にすっかり巻き込まれる幸せなひとときであった。

 落語の興行が全て止まり他のロケもできないし・・・という状況もあるのだろう、取材にたくさんの時間を費やしていただいた。コロナ禍の中のせめてもの幸いと言うべきか。最初スタジオにいらしたときに「お久しぶりでございます」とご挨拶したら「おー、久しぶりだね」のリアクション、記憶していただいていたようで安堵した。

これでしばらく現場がなくなる。月並みではあるけれど、人に逢って写真を撮っていられることの尊さを次の現場までの間に何度も何度も嚙みしめるだろう。この状況下に在って心身ともに健やかでいることに心を尽くそうと思う。さて、そのためには飯だ、飯!

# by naomu-cyo | 2020-04-16 13:06 | お仕事 | Comments(2)
 新型コロナウィルスの影響で世間は騒がしく、反対に街が静まり返っている。震災直後もそうだったが、こういうときは飛び交う情報を拾いすぎないようにし、平常心を保つよう心がける。

 まず、生活を変えない。免疫力がおそらく高く、普段から体調を崩すことがほとんどないので、今更改めることは特に見当たらない。ただ何が起きるかわからないので、人混みは極力避けるようにしている。わたしは大丈夫でも、知らず知らずのうちにウィルスを媒介する立場になってしまう可能性だってある。人命に関わることだし自営業の身だし、それはいちばん避けねばならぬことだ。

 高齢者が被写体の撮影が早々にバラシになり、撮影に入る予定の落語会が中止になり、楽しみにしていた舞台公演も中止になった。ようやく参加できると楽しみにしていた手仕事フォーラムの勉強会も中止。毎日何かしらの中止のお知らせがSNSやメールで飛び込んでくる。普段接している噺家さんや舞台俳優さんたち、興行サイドの方たちのダメージは相当だろう。せつなくなる。そんな中、若手の噺家さんたちがYouTubeで高座の配信を始めた。こちらの厚意に委ねる形で振込先が提示されている。彼らのフットワークの軽さと発想の転換力とたくましさに、スマートフォンの画面越しに拍手を送る。全てが落ち着いたらお礼の言葉を伝えよう、あのときあなたの発信に笑わせてもらいました、って。

映画「パラサイト」を観る。_a0025490_14164454.jpg
 先日同業の友人と呑んでいて、映画の話になった。ああ、最近ちっとも観てないなと思い、話にも出た「パラサイト」を観てきた。新宿の映画館の21時台に始まる最終上映回を、おそらく空いているだろうなとあえて選んで。

 久しぶりすぎる韓国映画。わたしの中でいちばんの韓国映画は「オールドボーイ」(2003年)で、観たときの衝撃ったらなかった。今回の「パラサイト」もさすがアカデミー賞を獲った作品、厚みとパンチがある作品でスクリーンから目が離せないどころか、前のめりになって観た。

 前半では、底辺の生活をしていてもそこには家族の濃いつながりや日々の笑いがふつうにあり、そこで生きるたくましさやしたたかさがしっかりと描かれ、後半では格差社会を否応なく見せつけられる。とても印象に残ったのが、格差という意味での上下もさることながら、それをビジュアルで表している点だった。生活レベルの上下というビジュアル化にとどまらず、半地下どころかリアルな地下の生活を見せる。仕事先である高級住宅街から半地下の我が家へ大雨の中走って戻っていく、その場面で出てきた長い階段や急な坂道、社長宅のキッチンの隠し棚から続く地下深くにある隠れ家。実際の上下移動が様々に描かれていて、そんな移動からも這い上がるのが容易じゃない格差が伝わってきた。

 まさかの連続な展開をして終わったこの作品を観て、社長一家の家庭教師やら運転手やら家政婦やらという形で仕事を得、パラサイト(寄生)して生きている彼らキム家の望みは、なんだったのだろうと考える。自分たちも一発逆転いい生活を送れるようになりたかったのか、それとも寄生し続けられればそれでよかったのか・・・。いや、その日その日を無事に送ることに必死で、将来のビジョンを抱く余裕すらなかったか。息子や娘は夢を見たと思う、いつかきっといい生活をしたい、と。無計画を信条にする父や母はこのまま寄生し続けられればいいと思っていたんじゃないか。もろくも願いは崩れ去ってしまうのだが、最後のシーン息子の一人語りを聴けば、彼は諦めずに這い上がろうと心に誓っているのがわかる。希望はあるのかないのか。彼の世代の時代になって変わるのか、どうか。暗澹たる気持ちになるのをギリギリで止めていたのは、彼の一人語りだった。

 この作品を見た数日後に毎日新聞朝刊に「『パラサイト』にみる韓国の現実」という記事が載っていた。そこで、作品の舞台になった半地下は、かつて「北朝鮮との武力衝突に備え半地下設置を促す規定が建築法」にあった名残だと知る。また、再開発の波が押し寄せ、舞台となった半地下のある住宅街の坂道を上がれば一戸一億円級のマンションが立ち並んでいるという。

 対岸の出来事ではない、と思う。今回のコロナ禍しかり、こういうことが起きれば常以上に足元がおぼつかなくなる我が商売だ、今はかろうじて自宅と仕事場の家賃を払えているが、いつどうなるものかわからない。漠然とした不安を常に頭の片隅に抱えながらも、前向きになれる体力気力は常に養っておかねばなるまいなあ。

# by naomu-cyo | 2020-03-08 14:20 | 映画 | Comments(2)