新型コロナウィルスの影響で世間は騒がしく、反対に街が静まり返っている。震災直後もそうだったが、こういうときは飛び交う情報を拾いすぎないようにし、平常心を保つよう心がける。
まず、生活を変えない。免疫力がおそらく高く、普段から体調を崩すことがほとんどないので、今更改めることは特に見当たらない。ただ何が起きるかわからないので、人混みは極力避けるようにしている。わたしは大丈夫でも、知らず知らずのうちにウィルスを媒介する立場になってしまう可能性だってある。人命に関わることだし自営業の身だし、それはいちばん避けねばならぬことだ。
高齢者が被写体の撮影が早々にバラシになり、撮影に入る予定の落語会が中止になり、楽しみにしていた舞台公演も中止になった。ようやく参加できると楽しみにしていた手仕事フォーラムの勉強会も中止。毎日何かしらの中止のお知らせがSNSやメールで飛び込んでくる。普段接している噺家さんや舞台俳優さんたち、興行サイドの方たちのダメージは相当だろう。せつなくなる。そんな中、若手の噺家さんたちが
YouTubeで高座の配信を始めた。こちらの厚意に委ねる形で振込先が提示されている。彼らのフットワークの軽さと発想の転換力とたくましさに、スマートフォンの画面越しに拍手を送る。全てが落ち着いたらお礼の言葉を伝えよう、あのときあなたの発信に笑わせてもらいました、って。

先日同業の友人と呑んでいて、映画の話になった。ああ、最近ちっとも観てないなと思い、話にも出た「パラサイト」を観てきた。新宿の映画館の21時台に始まる最終上映回を、おそらく空いているだろうなとあえて選んで。
久しぶりすぎる韓国映画。わたしの中でいちばんの韓国映画は
「オールドボーイ」(2003年)で、観たときの衝撃ったらなかった。今回の
「パラサイト」もさすがアカデミー賞を獲った作品、厚みとパンチがある作品でスクリーンから目が離せないどころか、前のめりになって観た。
前半では、底辺の生活をしていてもそこには家族の濃いつながりや日々の笑いがふつうにあり、そこで生きるたくましさやしたたかさがしっかりと描かれ、後半では格差社会を否応なく見せつけられる。とても印象に残ったのが、格差という意味での上下もさることながら、それをビジュアルで表している点だった。生活レベルの上下というビジュアル化にとどまらず、半地下どころかリアルな地下の生活を見せる。仕事先である高級住宅街から半地下の我が家へ大雨の中走って戻っていく、その場面で出てきた長い階段や急な坂道、社長宅のキッチンの隠し棚から続く地下深くにある隠れ家。実際の上下移動が様々に描かれていて、そんな移動からも這い上がるのが容易じゃない格差が伝わってきた。
まさかの連続な展開をして終わったこの作品を観て、社長一家の家庭教師やら運転手やら家政婦やらという形で仕事を得、パラサイト(寄生)して生きている彼らキム家の望みは、なんだったのだろうと考える。自分たちも一発逆転いい生活を送れるようになりたかったのか、それとも寄生し続けられればそれでよかったのか・・・。いや、その日その日を無事に送ることに必死で、将来のビジョンを抱く余裕すらなかったか。息子や娘は夢を見たと思う、いつかきっといい生活をしたい、と。無計画を信条にする父や母はこのまま寄生し続けられればいいと思っていたんじゃないか。もろくも願いは崩れ去ってしまうのだが、最後のシーン息子の一人語りを聴けば、彼は諦めずに這い上がろうと心に誓っているのがわかる。希望はあるのかないのか。彼の世代の時代になって変わるのか、どうか。暗澹たる気持ちになるのをギリギリで止めていたのは、彼の一人語りだった。
この作品を見た数日後に毎日新聞朝刊に「『パラサイト』にみる韓国の現実」という記事が載っていた。そこで、作品の舞台になった半地下は、かつて「北朝鮮との武力衝突に備え半地下設置を促す規定が建築法」にあった名残だと知る。また、再開発の波が押し寄せ、舞台となった半地下のある住宅街の坂道を上がれば一戸一億円級のマンションが立ち並んでいるという。
対岸の出来事ではない、と思う。今回のコロナ禍しかり、こういうことが起きれば常以上に足元がおぼつかなくなる我が商売だ、今はかろうじて自宅と仕事場の家賃を払えているが、いつどうなるものかわからない。漠然とした不安を常に頭の片隅に抱えながらも、前向きになれる体力気力は常に養っておかねばなるまいなあ。