小山清は太宰治に師事した人で、そのことはこの作品集を読むまで知らなかった。新聞の書評がきっかけで手に取り、日常や思い出の中のこまごまとした風景や心模様をとらえた素朴で味わいのある文章にほっとする想いで、ぽくぽくと・・・といった感じで読んだ。
吉原生まれの作者の子ども時代が描かれた「桜林」は、「たけくらべ」や落語の世界の雰囲気が行間のあちこちから匂いたつようでやたらと楽しかったし、孕んだ捨て犬に情が移ってついつい飼い始めた日々を描いた「犬の生活」は、野良出身の猫と暮らすわたしには共感するところが多々あって、うんうん言いながら読んだ。文庫のトリを飾る「メフィスト」が秀逸。読みながらにやにやし通しだった。終戦直後、津軽に疎開中の太宰に代わって三鷹の家で留守番している作者が、太宰を尋ねてきた女性に太宰のふりをして接する話。太宰作品で見かけるような言い回しもたくさん登場して、なんとも愉快な、師への愛情にあふれた作品だった。
同じ日にふたつの39歳ネタに遭遇なんて、これはなにかの暗示か・・・と思わず勘ぐる。かたや情死、かたや20も若い未成年と恋愛・・・。事実と小説だけど、どっちも遠いぜありえないぜと思わず笑いが出た。そういやスタジオを辞めた頃に見ていた昼ドラマのタイトルは「39歳の秋」だった。39歳設定の片平なぎさがたしか25歳設定の大沢健と恋に落ち、年齢をごまかしてつき合うのだがそれが露見してすったもんだ・・・という話だった。もしかして39歳というのは微妙なお年頃なのか。「サンキュー」と言い続ける一年にしようなんて軽いノリでいたいんだけども。
ふたつの39歳ネタによって本日気付いたことといえば、年齢のことを実はいちばん気にしているのは自分自身なんじゃないか、ということ。こんな生活しているくせに、自分にはわりと保守的な一面があり、その保守的な部分が自らを縛っている気がする。ここはやはり革命が必要でしょう。瓦解が必要でしょう。そう息巻きつつも、ヘタレなわたしは尻込みするばかりなんだなあ・・・。
入り口で「是非試してください」と音声ガイドを渡される。場面ごとの台詞以外の描写を音声で教えてくれる、視覚障害者向けの装置。台本のト書きの部分を音声で案内する、という感じ。どんな場所か、どんなきものの柄を着ていてどんな体勢でいるか、なども音で説明される。字幕も付いていて、聴覚障害者向けの案内もされており、2000年公開時に観たときとはまた違った状況で作品世界を堪能した。
そうだ、渋谷のシネパトスで観たんだった。学生時代から暇さえあれば映画ばかり観ていて、その傾向は卒業してからも続き、20代はわりと映画三昧で過ごした。その後落語の世界に関わりはじめ、そして映画館はシネコンだらけになり、少しずつ映画を観る機会と興味が減っていった。20代の頃によく足を運んだ映画館がいくつもなくなった。
今回13年前に観た作品を改めて観て、この13年間で身に付いたものたちのおかげで、初回よりもいろんな側面で楽しめるようになっていることに気付いた。たとえば。映画の終盤に、どら平太が酔っぱらった馬方に、「あの味噌の付いた馬(=味噌樽をぶら下げた馬)を売ってくれ」と懇願するシーンがある。酔っぱらいは「味噌の付いた馬?馬の田楽なんて食べたことない」というようなことを返すのだが、これはそのまま「馬の田楽」という古典落語の一節で、思わずニヤリだった。それから、どら平太の着ている唐桟縞のきものの縞ぶりの良さにうっとりしたし、裃姿のときの江戸小紋の柄に目が吸い寄せられたし、衣擦れの音も気になった。この13年、その都度その都度きもの代だの落語代だのとほかにもあれこれ勉強代を払って知る機会を得てきたのだなあと、映画祭の主旨と関係ないところで我ながら感心した。無駄な銭ではなかったというわけだ。
この映画祭、そんな個人的な13年を振り返るきっかけをいただいた貴重な機会でもあった。
今週はロケ三昧だった。朝から動いて夕方に終了。帰宅すると疲労困憊、何もする気にならないから新聞は溜まる一方。冷蔵庫にあるものでなんとかご飯をこしらえてお風呂にゆっくりつかって少し早めに寝る、出せる全てを出し切るために。外ロケは不可抗力である天気や風の影響をもろに受けるから、どんな状況でも頭と身体がしっかり働くよう体調万全にしておくのだ。
梅雨明けしたのかどうか、今週は雨マークのつく日もぽつぽつあった。それでも、ロケ決行。幸いなことに、もろに影響を受けることなく無事やりおおせることができた。振り返ってみれば、どこの現場もスタッフはオール女子で、最近このテの現場が多いのだが、それは女性が現場で陣頭指揮をとる案件が増えたのか、はたまた男性からの依頼が減っているからなのか、現時点ではよくわからない。先週は男性との現場ばかりだったし。
週前半はハンドメイドコスメ・LUSHのウェブサイト用の撮影で、だだっ広い公園の緑の中を飛び回ってきた。デザイナーKちゃんの手描きラフが秀逸で、それを見てどういう雰囲気が求められているのかがたちどころにわかったし、現場で空の具合を見ながらさらにアイデアを出し合い、あれこれ試みて、予定以上にたくさんのシーンを撮影できた。楽しみ上手なスタッフさんたちのおかげで、願ったり叶ったりな雰囲気が撮れたと思う、爽快な青空は拝めなかったけれども・・・。天気は仕方ない。その日配分された天気の中で最大限知恵を働かすまでだ。
きのうは慶応義塾の医学部生を撮影。取材撮影ということで最初とても緊張している様子だったけど、インタビューを進めるうちに緊張がほどけたのか、撮影はいたってスムーズに。スムーズついでにあれこれお願いして、照れくさそうにしつつも、実に楽しげに様々なシーンを撮らせてもらった。
外で撮影するという開放感が為せるわざ、な部分は大いにあっただろう。今週のロケは総じて「FUN」の空気が漂っていて、危うい天気にめげることなく、「楽しかったですねー!」で締めくくることができた。終えたら終えたで、形になるまでにはスタッフさんそれぞれがたくさんの作業を抱えるわけだから、現場くらい楽しくなくては!といつも思うのだ。
老人ホームで初めてきいた「臨床美術」という言葉。施設利用者さんにアートセラピーを行っているという話を伺った。そしたら今度は臨床美術に関するパンフレットの撮影が入っていて。あまりの偶然の連鎖にびっくりした。そして介護話もりだくさんの伊藤比呂美さんのインタビュー。見事に繋がったのだ。
今月はほかにも障害者の授産施設撮影が続き、そこに農業が絡んできたりもして、食とか農とか福祉とか生活に寄り添った撮影がやたらと多かった。この連鎖は神様がわたしに何かを教えようとしているんじゃなかろうか、なんて想像してしまうほどに。
仕事の内容が連鎖していくように、人との出逢いや付き合いもまた連鎖していく。娯楽を共有している人から仕事がきたり、仕事で一緒になった人とプライベートでつるんだり。境界がどんどん曖昧になっていって、誰と接していても相手によってモードを変えたりするなんてことがなくなった。その次にはどんなステージが待ってるんだろう。連鎖していく人たちと、どんなことをしていくんだろう。偶然の連鎖は先々に希望とか夢みたいなものを見せてくれる。